今月の初めにブログを書いてから依然として動き出せないでいる。
なんとなく生きている現状と相対して、時間は刻刻と一定のテンポを刻み続け、
ほぼ平等に与えられた人生の残りというのは、今もなお漠然と消費を続けている。
一体何がしたいんだろう。そんな自問自答はぐるぐると頭の中を回り続け、自分を嘲笑っているように感じる。
とにかく今の自分は酷いと思えるのである。
時間を無駄に浪費しているとか、そんなレベルではなく、昔あれほど大好きでいたゲームや漫画などに対する情熱は失せ、かといえば自分を変えようとする為の研鑽に向き合おうとしてはすぐに心が折れる。
一体何がしたいのかもわからず、現状の自分といえば、ひたすらネットの損とも得とも言えない誰かのやり取りを眺めてはだらだらと仕事を行う怠惰の連鎖である。
そんな毎日に嫌気がさしつつも、変えようとしないこの自分がひたすら愚かしく感じ、また世の中でひたむきに頑張っている人たちに対して勝手に後ろめたさを感じながら、人生で一番虚ろな毎日を生きている。
生きているだけで幸せなのだろうか。
彼女がいるだけで幸せなのだろうか。
安定した生活が幸せなのだろうか。
いずれもきっと、それを既に手にいれているからこそ浮かぶ愚問なのであろう。
彼女がいなければ、きっとどうにかしてでも作ろうと必死になるはずだ。
収入が不安定であれば、きっと死に物狂いで次の職を探しているはずだ。
そして、今にも死にそうな、あるいはすぐにでも死んでしまいそうな病にかかっているのであれば、必死に生きることにしがみつく、人間とはそんな生き物なのだろう、と、ぼんやり考える。
感情の整理がつかず、なんとなくここに書いてみればとりあえずすっきりするかもしれないと思って自分の心情を書き起こしてみたが、存外にすっきりすることは泣く、むしろ状況が整理されてしまった分、自分の甲斐性の無さに絶望するのが分かった。
また、依然としてこの怠惰を抜け出す糸口は見つからない。
今はただ、何とも言えぬ五月病のような気怠さを抱え込んだまま日々を過ごすしかないのだろうか。
ところで、人というのは行動を制限された中で非情に生産的なことを行いたい衝動に駆られるのではないかと思う。
仕事の間の休憩時間とか、あるいは出先で人を待っている時だとか、そういった身動きがとれないけれど何かを考える余地がある時間とか、そんな時にひょいと芸術的衝動が顔を出すのが常である。
きっと、そんな衝動に頼らずとも、世の中で成功している人はやるべきことを習慣化させてやっているのだろう。
先日読んだ本で、勉強というものは、瞬間のやる気に頼ってやろうとしていては一生うまくいかないと書かれていた。
これはつまり、やる気は毎日毎時間起こせるものではないため、1年も2年も到底続ける事ができないということらしい。
自分は何を習慣化させようか。苦手な歌の練習でもして、
少しでも怠惰な時間を削ろうか。
ぼんやりとそんなことを考えては、今日もベッドの上で惰眠を貪っている。