作日、お昼のランチバイキングに行った。神戸の海が見渡せる24階のちょっとこまし(だと思ってる)な店だ。そこにいたのは、高校生らしい団体で10人以上はいた。窓際ではなく、席をくっつけることができる奥のほうに陣取っていた。


 それを見つけた瞬間、嫌な予感がしたのでなるべく避けて座った。案の上、ギャーギャーワーワー騒ぐし、パチンパチンと手は叩くし、携帯で写真は撮るは、あげくの果てには化粧までしだした。


 後から来てそいつらの近くに座った人たちは、さっそく席の移動。それでも、店員さんが一度注意にいった。「は~い」と言って笑って、またドンチャン騒ぎだ。


 私達の前には、双子連れの若い家族がいた。子供達は静かだった。おまけに、子供がおとしたフォークや汚したところまで親がふいていた。「ああいう立派な親もいれば、ああいうのもおる」と。

 

 ああいう場面では、できたら店員が注意をしてやめさせて欲しい。もちろんそれができる店もあるだろう。でも、できなくてもいいから、せめて注意だけでもして欲しい。客がごねだしたら店が立場が悪いだろう。


 仮に、店の言い分が正しくても、あとでどんなデマを流されるとも限らない。今は、どんな客(消費者)がいるかわかったものでなない。ゴネ得なのだ。


 それは、今までの大人達が積み重ねたしつけ不足の歴史の集大成だ。最近見かけなくなったが、7、8年ほどまえ、ファミレスに行くと、子供が席の上でどんどん飛び跳ねて遊んでいても注意しない親が本当に多かった。親はいったい何を考えているんだろうか。


 席でねっころがる、店の中を走り回る、大声を出す、親はなにも言わない。お喋りに夢中の親もいれば、携帯に夢中の親もいるが、そんな子供の様子には無関心な親が多かった。というか、多くなってきていた。  (続く)

 あるパチンコ屋で、40代か50代の店員が、ホールに入るとき深々と頭をさげた。それを見て、なんとなく違和感を感じた。今の時代、サービス業は接客重視だから、店員がホールに入る際に頭をさげるのはおかしくはない。


 ただ、世の中サービス過剰気味になっていないだろうか。金を払えばみんな客、客だから何をやってもいいという風潮を感じる。それは、サービス業ではない、学校や病院でおきている給食費未払いや要求過剰のモンスターペアレンツ、更に医療費を払わないモンスターペイシェントなる者が湧いてでているようだが、これらの一因は世の中のサービス過剰と無縁ではないように思う。

 

 以前、私が子供の頃の郵便局のサービスは酷いものだった。いわゆる「お役所仕事」と言う言葉があるように、現在のサービス業者はのきなみ偉そうな態度だった時代が日本だけではなく、海外でも長くあった。


 それを今のような「お客様は神様です」の対応を取り出したのは、いろいろなきっかけがあっただろうが、大きな理由の一つはアメリカのウォルマートの成長にある。創業者は、サム・ウォルトン。彼が一代でウォルマートを全米でも有数のマーケットチェーンにした大きな理由の一つが、「お客様のいうことは正しい。疑問に思ったら左を読み返せ」という内容のスローガンだ(ブログ用に変更してます)。

 

 これによって、顧客第一主義がアメリカをはじめ、各国に伝わったわけだ。これが消費者に受けた理由は、それまでサービスの悪い店で気分悪く買い物をしていたのが、丁重な扱いを受けて気持ちよく買い物ができることだ。ウォルマートのスローガンは決して間違いではなかったと思う。誰だって、気持ちよいサービス、接客は嬉しいものだ。


 だが、問題は顧客第一主義が浸透して、サービスが良いのが当たり前になった今の世の中、その中で、今度は客の側が、以前の郵便局を初めとしたサービス精神のない店側のように横暴に振舞うようになってきたことだ。 続く

KY」と言えば、最近は誰でも知っているように、「空気が読めない人」のことだ。つまりは、その場の雰囲気に合わせて盛り上がれない人のことだ。「CKY」といえば、更に「空気の読めない」のがひどい人のことを言うらしい。

 

確かに、みんなが楽しく盛り上がっているのに、その雰囲気を壊すのは、決していいことではないかもしれない。特に、人の輪に入るのが苦手な人だと、話を振られたとき、困ったような顔をして何も答えないと周りのフォローも大変かもしれない。

 

だからといって、そういった人達を「KY」などと呼ぶのはどうか。その人達は、コミュニケーションを取るのが苦手なだけだ。そんなに、馬鹿みたいに盛り上がることが大切なのか。ある意味、障害者にむかって「おまえは障害者だからどうしようもないな」と決め付けるのと同じである。「KY」は確実に差別用語だ。

 

更に酷い問題は、それをメディアで取り上げることだ。流行語になったり、現代語として辞書にのったり、それを面白おかしくテレビで報道する。アナウンサーまでが、話の合間につかっている。流行語を取り入れた、ウィットにとんだ気のきいた会話でもしているつもりなのか。

 

 メディアというのは、ろくでもないものだと私は以前から思っている。メディア批判は別の機会に譲るが、80年代の半ばからメディアを通して、面白おかしく差別用語がこの国には蔓延していた。「ネクラ」や「オバタリアン」などは代表的な例だが、「笑い」の中に人を差別する本当の怖さを隠してテレビは面白おかしく垂れ流す。


 そういう言葉は、人の痛みをまだ知らない「子供」の世界で通用するものだ。大人の世界でやっちゃいけない。まして、まだろくに人間性も育ってない「子供」の世界で通じる言葉を「大人」がもてはやすのは、とんでもないことだ。現代人は大人も子供も同じ程度の幼稚さだといえる。

 

 この、「KY」という言葉のおかげで、どれだけの子供や大人が苦しんでいることだろう。ただ、コミュニケーションをとるのが苦手なだけの人が、どれだけこの言葉のせいで苦しんでいるのかしっているのか。いつまでこの国は、ガキの文化をおとながありがたがるのか?

 

 最近は、子供の心のまま、大人になったやつが多い。人は痛みを知って初めて人の辛さをわかるという。天災地変や戦争が起きて地獄のくるしみを味あわないと、その酷い人間性を治せないのなら、きっと神様はそうせざるをえないだろう。

 

 もうそろそろ、やめよう。悪いことを悪いともいえないこの国の文化。人を差別して悪いと思えない。いじめの問題が深刻化していることを報道する、同じ電波で人を公然と差別する。自分で自分の首をしめるような行為だ。いつの頃からか、軌道を外れた列車のようになったこの国をきちんとした軌道に乗せよう。気付いた人から「KY」はなくそう。「KY」などという言葉を使って面白おかしくはやしたてる文化を捨てよう。