劇場版 少女歌劇レヴュースタァライトの雑文です。そもワ(イ)ルドスクリーンバロックですので、まじめに考察したところでなんの意味も無いわけですが。当方かれひか専攻のため、他CPは皆様にお任せします。しょせん素人考察なので異論どんと来いです。
もちろん多分にネタバレを含みます。
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目次
①劇場版観劇前提1:TVシリーズ・ロンドロンドロンドは、それぞれレヴュースタァライトにおいて一体何が進展した物語か?/愛城華恋の異常性の議論はどこに端を発したのか?
②劇場版観劇前提2:ロンド〜幕間におけるキリン・大場なな・神楽ひかりはそれぞれどんな属性の人物か?
③劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト 雑文
・ワ(イ)ルドスクリーンバロック
・「これはオーディションに非ず」
・「舞台と観客が望むなら、私たちはもう、舞台の上」
・「だ・か・ら、なんだか強いお酒を飲んだみたい」
・『舞台少女の死』
・トマト
・突然の死→怒りのロケットロード
・「此処が舞台だ、愛城華恋!」
・最後のセリフ
・あなたの目を灼くのは、ひかり
・「私も、○○○に負けたくない」
・"二重展開式少女歌劇"/愛城華恋⇔小山百代/"レヴュー・スタァライト"
・おまけ①:大場ななの再演を絶った要因 愛城華恋は本当に落ちこぼれか?
・おまけ②:"思春期の可能性"
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①劇場版観劇前提1:TVシリーズ・ロンドロンドロンドは、それぞれレヴュースタァライトにおいて一体何が進展した物語か?/愛城華恋の異常性の議論はどこに端を発したのか?
レヴュースタァライトの物語の主軸である愛城華恋・神楽ひかりについて、TVシリーズで進展した要素は以下の2点かと思います。
つまり、『キリンのオーディションによって一度はキラめきを奪われた神楽ひかりが、自分の舞台少女としての立脚点である愛城華恋を同じ境遇に陥れないために再度聖翔のオーディションへ飛び込み、最後には燃料として消費されるはずの7人分のキラめきを肩代わりして自らを塔に閉じ込め、終わらない舞台を演じ続けることでオーディションを終わらせた』ことと、
『聖翔99期2年A組では落ちこぼれだった愛城華恋が神楽ひかりの転入によって変質し、一度は神楽ひかりを失ったものの、戯曲スタァライトに新しい解釈を書き加えることで彼女を塔から救い出し、キリンのオーディションの勝者となり、かつ第100回聖翔祭のスタァライトで、神楽ひかりと幼い頃に交わした運命の舞台に立つ約束を果たした』ことの2点です。
TVシリーズの時はこれを以って明らかなハッピーエンドの解釈だったのですが、完全新作劇場版の制作が決まり、その前日譚として再編された再生産総集編ロンドロンドロンドではそのニュアンスが変容します。
具体的には、愛城華恋が『戯曲スタァライトに新しい解釈を加え』たことと、『第100回聖翔祭のスタァライトで、神楽ひかりと幼い頃に交わした運命の舞台に立つ約束を果たし』てしまったことが、ネガティブなニュアンスを帯びてきます。
キリンは、作者不詳の物語に新章を書き加え、新たな方向へと転がし始めたのであれば、その先を見せろ、と唱えるのですが、ここで問題になってくるのは第100回聖翔祭スタァライト以降の愛城華恋の舞台に対するスタンスです。
愛城華恋と神楽ひかりは、5歳の時に舞台スタァライトを観劇し、舞台に魅了され、舞台の上で再開することを誓いました。TV版11話で、運命の舞台の燃料として消費されるはずのキラめきを神楽ひかりが全て肩代わりしたにも関わらず、愛城華恋が無気力になってしまったのは、キラめきがあろうが無かろうが、神楽ひかりの存在がなければ愛城華恋は舞台少女たりえないからです。
その『神楽ひかりとスタァライトを演じる』ことだけを糧にして12年を過ごしてきた愛城華恋が、TV版12話で大願を成就してしまったわけです。
それではキリンの望む終わりの続きを演じるには役不足です。そして極め付けが、ロンドロンドロンド終演後の新作劇場版予告の愛城華恋の台詞、「私だけの舞台って、なに?」。
この辺りで、どうやら愛城華恋は舞台少女としての根本の成り立ちからして狂っているのではないか?という論が湧き上がってきます。
これらが新作劇場版を観るに当たって前提となる物語の要件かと思います。
②劇場版観劇前提2:ロンド〜幕間におけるキリン・大場なな・神楽ひかりはそれぞれどんな属性の人物か?
再生産総集編ロンドロンドロンドは先述の通り、『TVシリーズを再構成し、ほぼ同様な結末へ導きながらも微妙にズレた着地点へ落下する物語』でした。
ロンド〜には7つの幕間があり、それぞれ大場ななとキリンが各レヴューを回想しつつ、互いに問答をするような形で話が進行します。
まずはキリンについてです。レヴュースタァライトにおけるキリン(津田健次郎)は、オーディションの主催者であると同時に我々観劇者の望みを叶える代弁者でもあるように描かれています(TV版12話)。
また、オーディション自体も概念的なもので、あの地下構造や舞台装置の実在性を問うのは主軸からズレます。約束タワーブリッジにしろ、理屈ではない旨古川監督は良く話していて、新作劇場版をワイドスクリーン・バロックもどきと称すのは言い得て妙だと、初回観ながら膝を1万回叩きました。
大場ななは、第99回聖翔祭スタァライトに魅了され、それに執着し、キリンのオーディションの勝者となり続けることでその再演を果てなく繰り返していた、聖翔のオーディションのイレギュラー要素です。
再演を繰り返す過程でキリンと関係値を持ったためか、ロンド〜幕間における彼女の描かれ方は主催者寄りです。
またこの2名はレヴュースタァライトにおいてはある種神のような存在で、常識的現象を超越するきらいがあります(オーディションの枠組み・皆殺しのレヴュー時の挙動など)。
問題は神楽ひかりです。ロンド〜幕間⑦で彼女は大場ななの誘いからオーディションの主催者側に歩み寄り、そこで幕切れとなります。あの描写はなんだったのか。
まず、その直前のロンド〜幕間⑥の問答で、大場ななは新作劇場版の根幹要素たる"舞台少女の死"と"ワイルドスクリーンバロック"の概念を理解しています。そのうえで終章の続きを転がしてキリン≒観劇者の願望を叶えるべく、皆殺しのレヴューへ繋がるわけですが、聖翔99期選抜組の中でも愛城華恋は相当に重症です。舞台への飢え・渇きが鈍り、"舞台少女の死"へ達し掛けた6人も、鈍ながらも次の目標を持って舞台と向き合ってはいましたが、愛城華恋だけは、『神楽ひかりが居なければ、もはや舞台に立つ理由がない』というような人間です。
オーディション主催者の意図を理解した大場ななからすれば、レヴュースタァライトの主人公がそのような状態では困るわけです。文字通り舞台にすら立っていないのですから。
発破を掛けるにもどうしたもんかというところで呼び出しを食らわせるとすれば、そりゃ神楽ひかりしか居ない。運命の交換をした張本人ですから。
神楽ひかりは、大場ななの再演ループを抜けた聖翔のオーディションの勝者であり、その点主催者寄りではありますが、劇場版冒頭を見るにキリンの予期するところからはかなり脱線した存在のようです。
また、ロンド〜から地続きの劇場版冒頭で、神楽ひかりは愛城華恋に『ふたりでスタァライトする』以上が無いことを示唆して彼女の前から去ります。幼い頃から一緒にスタァを目指していた親友を突き放したように見えて、実際には別の理由があったわけですが、それはそれとして。
これらをまとめると、神楽ひかりは『愛城華恋の舞台少女としての歪みに気付いており、観劇者の意図を理解した大場ななにその異常性を共有した上で、愛城華恋を突き放すために目の前から去った、俯瞰気味の人物』というところになります。
「運命の舞台まで、追いかけてきてくれてありがとう華恋。でも私たちの舞台はまだ終わっていない。私たちはもう舞台の上」
③劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト 雑文
一生論文調で行こうと思ってたらしいんですが、学士論文もまともに上げられなかった僕ですのでここからは雑文調です。でももう、ここまでで6000字超えてるらしいよ、マジ?
・「ワ(イ)ルドスクリーンバロック」
そもそもワイルドスクリーンバロックってなんなんだよ、という話ですが、言葉の定義はあまり重要ではなく、キリンの言うように「観客が望む最終章の続き」であり、ワイドスクリーン・バロックの如く深遠でありながら軽薄な映像表現、といったところでしょうか。
再演の果てに『舞台少女の死』を知覚した大場ななが、3年生になった99期生選抜組がそれに向かっていることを認知し、ある意味キリンの尖兵となって幕を上げるのが『ワイルドスクリーーーンバロック/皆殺しのレヴュー』。
ロンド〜幕間⑥でのキリンとの台詞がそのままレヴュー曲の歌詞になっている(『貴方、わかります、か?La lala lala lalala, ワイルドスクリーンバロック〜』)辺り、これはキリンの意思による所が大きいのではないかと。
・「これはオーディションに非ず」
再度のオーディションを渇望していた花柳香子はトップスタァは上り詰める絶好の機会と歓喜しますが、あくまでこれは「観客が望んだ最終章の続き」であり、トップスタァを目指し歌い踊り奪い合う前回のオーディションとは違うと再三忠告されます。
それとてこのシーケンスの大場なな無双で興奮しない男子は居るんでしょうか。「こいつら、自分らがもう既に戦場に立ってること忘れて呑気にしてっから一遍皆殺しにしたろ」くらいのテンションかつ片手間仕事で上掛けを落としまくる様は絵面に反して爽快です。大太刀『輪』が遅れてきた理由、わかりません。
・「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」
この皆殺しのレヴューで天堂真矢だけは上掛けを落とされない。他の皆となにが違ったかといえば、大場なながレヴュー中に延々繰り返していた「列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは?」の問いかけに掛け合いで応えた、という一点だけです。流石学年主席の度量。
・「だ・か・ら、なんだか強いお酒を飲んだみたい」
大場ななが劇場版で執着しているのは「かつて眩しかった星見純那」なのですが、その彼女がアドリブに答えず、舞台少女として全く死に絶えているのを目の当たりにして滅茶苦茶キレてる魔王。そりゃ血糊くらい浴びせたくなりますよね。なりませんか??
・『舞台少女の死』
さて、散々出てきましたが『舞台少女の死』とは何なんでしょう。行き先に違いはあれど皆道筋は明確であり、かつ舞台への熱意も衰えていないように見えます。事実、EDで語られる九九組の未来は櫻木先生との面接から(あの2人以外は)変わっていないので、問題は外面ではなく内面です。
皆殺しのレヴューでの掛け合いと7人のトマト齧りのシーケンスを見るに、「常に舞台の上に立ち、日々渇き求め競い合うという心得を忘れ、ただ惰性で安穏と過ごすだけの女学生じみた精神性」を指して『舞台少女の死』としているように思います。
・トマト
開幕早々初っ端から華麗に弾ける愛の華。そのあとのデーン‼︎‼︎‼︎‼︎!で不気味を通り越して最早笑っちゃうトマト。花言葉は「完成美・感謝」。何なんでしょう。
ここまで来るとわりと簡単で、「『舞台少女の死』から脱し、もう一度舞台に上がるために喰らう果実」といった所でしょうか。ちなみにあれ、多分キリン(アルチンボルドのすがた)から転がってきてます。観客、求めてんな。
これを食べた者は、それぞれの残滓に片をつけるため、または観客の望む結末の続きを演じるためにワイルドスクリーンバロックの舞台へ上がります。
神楽ひかりもアリーナ構造内包型約束タワー(改)にいる時には既に齧ってるんですが、愛城華恋だけは自分の背後にあるトマトを無視して「私にとって、舞台はやっぱりひかりちゃん」などと、自分だけの舞台を見つけてこいと役作りの旅に送り出してくれた大場ななも草葉の陰で泣きそうな台詞を吐きながら神楽ひかりにアプローチしちゃう訳です。その結果、
・突然の死→怒りのロケットロード
一気に飛びます。かれひか専攻なので。
「神楽ひかりと二人で運命の舞台に立つ」という約束のみを糧にし、普通の喜び・女の子の楽しみを投げ捨てて、5歳から舞台へ向かってきた愛城華恋は、しかし神楽ひかりがいなくては舞台少女としての立脚点が消し飛んでしまう歪な存在です。二人が相対し、13年越しに神楽ひかりという運命をフォーカスから外したとき、舞台そのものが本来持っていた熱量・恐怖を浴びた彼女は、自分に「神楽ひかりとスタァライトする」以外に何もない事に思い至り、その瞬間に舞台少女としての死を迎えます。
言ってしまえば比喩表現なんですが、とは言えどう見ても死んでるのでかなりショッキングな絵面です。かつ、この辺から怒りのデスロード的な意味で映像表現も怒涛で考える暇がありません。ただ、ここに至るまでの華恋とひかりの心理描写については丁寧に追わねばなりません。
・「此処が舞台だ、愛城華恋!」
この2人、実のところTV版から全編通してかなりの時間分かり合えてません。TV版の神楽ひかりは愛城華恋からキラめきを奪わせないために唯一の勝者とならなければならず、劇場版では『華恋にのキラめきに目を奪われた自分が怖かった、彼女のファンになるのが怖かった』からロンドンまで逃げたと告白しています。
あ、まひるちゃん、あれどこまで演技だったの?
「また、私からお手紙を送るね」というひかりの言葉の大元にあるのは華恋のあの文通ルールのことで、最後にひかりから華恋へ送った手紙というのは5歳の時にスタァライトを見に行ったときの招待状です。
そして13年ぶりの手紙は、13年前に舞台少女として死にかけた自分を救い上げてくれたように、死した舞台少女・愛城華恋に還って来いと叫ぶものです。
ポジションゼロ型の棺桶にぶち込んで、アンプリファーガン積みの魔改造中央線に括り付けて蹴飛ばします。これ文字にすると凄いですね、どんな脳みそしてんの。
この辺からメタ非メタがわからなくなってきます。電飾にレヴュースタァライトとか書かないでもらえますか。完全に過負荷です。スーパースタァスペクタクル掛かりつつヒキ気味で「アタシ、再生産!帰ってきたよひかりちゃん、列車に乗って」のあのカットのスタァライト舞台感。めっちゃ舞台。
・最後のセリフ
どこまで演技だったかわからン崎まひるも言っていた通り、劇場版の根幹は「華恋とひかりが再び相対して、どんな台詞を言うのか」です。
2人の関係は思った以上に複雑です。互いに互いが大切な存在であることは確かですが、その抱いている感情の中身は対称ではありません。
そもそもTV版では「優等生の神楽ひかりと落ちこぼれの愛城華恋」という対比があったように思いますが、それも劇場版でひっくり返っています。
神楽ひかりにとって、愛城華恋は後を追いかけてくる頼りない幼馴染ではなく、一度は逃げてしまった「舞台少女として追うべき背中」であり、その事を受け止め前へ進もうとする彼女は最高に自信家です。
愛城華恋にとって、神楽ひかりは「二人で舞台に立つ」ことを誓い、その一点のみを目標にしてきた13年越しの運命であり、ただそれだけでは自分はもう舞台少女として成立しない事が分かっています。
では今この瞬間、愛城華恋にとって神楽ひかりはどんな存在なのか。
・あなたの目を灼くのは、ひかり
神楽ひかりが劇中、愛城華恋を「華恋」と初めて呼んだのは、13年前のスタァライトに彼女を誘った時です。それ以前にも「華恋」呼びはあったのかも知れませんが、少なくともあのスタァライトの招待状には「かれんちゃんへ」と書いてあるので、あれが初めてだった、と認知します。
一方、愛城華恋はここに至るまでずっと神楽ひかりを「ひかりちゃん」と呼んでいるわけです。しかし考えると、それって互いに対等ではないですよね。ひかりはいつも先に居て、華恋がそれを追いかけているような関係性が呼び方からも読み取れる。
最後のセリフの直前のモノローグで華恋は、「綺麗で、綺麗だけど怖くて、悔しくて、目が離せない」ひかりのキラめきに魅了されています。13年前に舞台で会おうねと誓ったあの日からこれまで「二人でスタァライトする」ことだけを目指し、その目標を達したが故に一度は舞台に居る事の意味を見失った彼女が、ずっと隣に居たはずのスタァの輝きに漸く気付いた。今や「二人で舞台に立つ」ことが、己が舞台に上がるための原動力ではなく、
・「私も、ひかりに負けたくない」
ひかりのキラめきに負けたくないから、私も舞台に立ち続ける、と。
それは13年前、ひかりを救い上げた華恋が、人知れず追い掛けていた背中が、終に「スタァライト」から「ひかり」へ焦点を向けた瞬間でもあり。
これを以って二人はまったく対称となり、この場所まで舞台を導いたひかりはポジション・ゼロに至り、『レヴュー・スタァライト』は終幕します。あれ?『スタァライト』ってスタァのひかりちゃん、って事??は??????
凡庸な表現ですが、ここに至って漸く二人は「ライバル」となったわけです。そう、裏を返せばこの13年間、二人はライバルではなかったわけです。
だって一人は「二人で運命の舞台に立つこと」を目指していて、もう一人は「相手には悟らせることなく、その幼馴染の背中を追い続けていた」んですから。そもそもスタァライトを観に行ったあの日あの時から根本的にすれ違ってるんです。
劇場版のチラ裏からして「二人でスタァに」、「舞台で待ってる」。既に違うじゃん。
そして、ライバルとのレヴューに終わりはない、永遠に。おい真矢クロやんけ、泣いてる。
論拠が薄い?そのうち改訂するかもしれませんが、兎に角。
・"二重展開式少女歌劇"/愛城華恋⇔小山百代/"レヴュー・スタァライト"
レヴュースタァライトは舞台が原作です。現実に歌って踊って演じるキャストが居て、それがキャラクターの前提です。それをもって"二重展開式少女歌劇"なんて呼んでるわけですが、だからこそあの終幕はメタ非メタ幾らでも捉えようがあると思います。
劇場版のパンフレットに、愛城華恋役の小山百代さんが「華恋を捉えられない」とよく言っていて、それを聞いた制作陣がそのままそれを愛城華恋に渡した、という旨のことが書いてあって、いかにもスタァライトだなと。現実のキャストと架空のキャラクターで相互に性質が行き合う、ということ自体は珍しくないのかもしれませんが、スタァライトに関してはその濃度が違うように感じます。「この作品はつまりこの9人だから、この9人を愛して欲しい」「演者にフィルムへの愛着を持ってほしかった」とは古川監督の言です。
「演じ、切っちゃった。レヴュー、スタァライトを」と言うあのセリフは愛城華恋の物でもあり、小山百代の物でもあり。
それで良いんじゃないでしょうか。これは二層展開式少女歌劇で、その上なんてったってワ(イ)ルドスクリーンバロックですから。
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・おまけ①:大場ななの再演を絶った要因 愛城華恋は本当に落ちこぼれか?
大場ななの再演を絶った要因は、神楽ひかりのようでいて実はキラめきを増した愛城華恋だった、という話はTVシリーズで語られた話です。
神楽ひかりが聖翔の再演ループに入り込むまで、彼女はオーディションで常に最下位の落伍者だったと。
神楽ひかりなしには舞台少女・愛城華恋は成立しないが、しかし神楽ひかりを得た愛城華恋は、大場ななもあの学年首席も凌駕するわけで。
それどころか、神楽ひかりが自主退学したあと、「遥かなるエルドラド」の準主役を空っぽのうわべだけで演じても、周りが感極まるくらいの芝居しちゃうのが愛城華恋のスペックなわけで、九九組の魔王は本当のところ愛城華恋なんじゃないかと。
・おまけ②:"思春期の可能性"
幼少期回想のマキちゃんと華恋ママの会話で、「お姉ちゃん(華恋母)が華恋のいろんな姿、見てみたいだけなんじゃないの?」「うん、見たい!〜見たいし、してあげたいよ。あの子の可能性が広がるなら」と言うセリフが出てきた途端に「ァー、"Possibility of Puberty"やんけェー!!!」となったオタクです。こんばんは。
"Possibility of Puberty"、知る人ぞ知る華恋のレヴュー武器の名前です。そりゃあ親の支え無しに演劇の道になんて入れないですよ。その点華恋のご両親は滅茶苦茶理解者だし、応援してくれてますよね。愛娘のどこまでも広がる可能性を見たいから。そう考えるとあの洋剣にはご両親の想いも乗っかってるんですね。エモいわね。
で、あれ、最後の最後、最後のセリフの前に前触れなくへし折れるんです。何でかと思ったんですが、あの時華恋の「思春期の可能性」は、ポジティブな意味で閉じたんじゃないかと思うんです。
高校生ってどんな選択もできて、人生で一番道が開けてる時期なんですよね。高校卒業というのは必然、何かしらに道を定めて可能性を閉じることでもあるわけで。
かつ、TV版までの愛城華恋は、九九組の他の8人の物語を動かすための舞台装置でもあった故に、何にでもなれる反面、何にもなれないような器用貧乏さがあって、それは後ろ向きに言い換えれば「ネガティブな可能性」です。
それを、自分は舞台で唯一無二の存在であると口上で高らかに叫び、さらに13年越しにすぐ隣で輝く星を見つけたことで、進む道も漸く定まった。ならそこにはもう「思春期の可能性」は不要なんです。
さようなら、"Possibility of Puberty"。TV版1話できみがポジション・ゼロに突き立ったあの瞬間、おれはスタァライトされたんだと今思い出したよ。
そう、華恋ママ。大原さやかさんの演技も相まって滅茶苦茶良いんです。ぜひ。(ぜひ?)
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だらだらと垂れ流しましたが、劇場版 少女歌劇レヴュースタァライト、傑作です。万人向けとは言いませんが、舞台から、TV版から、ロロロから、或いは今劇場版からでも、この舞台が放つ魅力に少しでも胸を奪われた方には、角度は違えど等しい速度で突き刺さって来ます。
ぜひ映画館で"観劇"してみてください。












































