関ヶ原の合戦を演出した小早川秀秋 -10ページ目

【小説:小早川秀秋】伏見城籠城

 伏見城は家康の留守を家臣、鳥居元忠が守っ
ていた。そして秀秋の兄、木下勝俊もそこに
はいた。
 鳥居は死を覚悟した籠城に戦にむかない弱
将の勝俊がいても戦力にはならず、もし死ぬ
ことにでもなれば弟の秀秋を味方にできない。
かといって勝俊も武人の端くれだから邪険に
追い出すわけにもいかないと悩んでいた。
「勝俊殿、お勤めご苦労様にございます。し
かしもうじきここに大軍が押し寄せてまいり
ます。多勢に無勢。ここはひとつ退去願えま
せぬか」
「それは存じておりますが、私は家康殿にこ
こに留まるように命じられております」
「さすがに勝俊殿は武士の誉れ。そのお言葉
を大殿が聞けば涙を流して喜びましょう。だ
からこそ申しておるのです。この城での戦い
では無駄死です。勝俊殿を死なせたとあって
は元忠、死んでお詫びしても大殿には許して
はいただけません。それに秀秋殿が大殿の味
方になることも難しくなりましょう」
「私と弟は別です。しかし元忠殿を困らせる
ことはできません。おっしゃるとおりにいた
しましょう」
「かたじけない。この元忠、勝俊殿のぶんも
存分に戦います」
「元忠殿、そなたこそ無駄死してはなりませ
んぞ。頃合いをみて退却するのも勇気がいる
もの。家康殿も元忠殿を失えば大きな痛手と
なり、なによりも嘆き悲しまれましょう」
「勝俊殿。そのお言葉だけで勇気百倍。元忠、
一世一代の大戦をご覧に入れます。命あれば
またお会い願えれば幸いです」
「もちろん。その時を楽しみに待っています
よ」
 鳥居が涙を流して一礼すると、勝俊も別れ
を惜しむように一礼して城を去った。
 それから間もなく毛利輝元が伏見城にいる
鳥居らに城の明け渡しを命じた。しかし鳥居
らはこれを拒否して籠城戦をする構えをみせ
た。そこで伏見城の攻略軍が組織され総大将
は宇喜多秀家、副将に秀秋が決まり、毛利秀
元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我
部盛親、長束正家、鍋島勝茂など兵四万人で
向かった。
 三成ら他の諸大名は家康の動きを警戒する
ため美濃、尾張などに向かった。
 伏見城に籠城している兵は千八百人ほどだっ
たが説得に応じる気配はなく、城攻めにもて
こずらせた。そこで義弘が持ち込んだ火箭を
使うことにした。この火箭は朝鮮から持ち帰っ
た火箭を手本にそれを作っていた朝鮮人も日
本に連れ帰り指導を受けて日本の火薬師に作
らせたものだった。見た目は竹竿の先に火薬
の入った太い筒があり、先端を円錐の形にし
ていた。その全長は人の背丈ほどで運びやす
かった。
 火箭を城に向けて火を点けると火炎を噴射
して、まさしく太い矢のように飛んでいった。
そして城壁の近くまで飛んで爆発し大炎上し
た。その威力はすさまじく三発で天守閣は大
破し、その上部は炎に包まれた。これをきっ
かけに秀秋らの部隊が城になだれ込み、籠城
していた鳥居らは自刃して果てた。
 この火箭の威力を大谷吉継は知っていたの
で漂着した船、リーフデ号に積んであった火
箭を事前に全て分解して火薬を取り出させた
のだ。
 島津義弘が火箭を大量に製造でき、すでに
保有もしていることが分かると宇喜多秀家ら
が大坂城に籠城するのではなく野戦をするべ
きだと主張した。
 秀家は豊臣秀吉の養子であり、毛利輝元と
一緒に大坂城にいる秀頼の名代として兵一万
八千人を率いる総大将となっていた。そのた
め三成もしかたなく従うことにした。しかし
輝元は大坂城に留まって秀頼を守り、その代
わりに輝元の養子、秀元と安国寺恵瓊、吉川
広家を野戦に参加させると言いだし、足並み
を乱した。

【小説:小早川秀秋】陣羽織

 これより前、筑前・名島城の秀秋のもとに
輝元の使者がやって来た。それは家康討伐に
加わるようにとの知らせだった。
 秀秋は主だった家臣を集め意見を求めた。
 稲葉正成はまだ二十九歳だったが筆頭家老
になっていた。
 稲葉からは意外な答えが返ってきた。
「こたびの首謀者は三成殿と聞いております。
その三成殿は政務一辺倒で諸大名をまとめる
力はなく、秀頼様を補佐する器ではありませ
ん。家康殿こそ真の後見人となるお方です」
 稲葉は豊臣家から小早川家に移ったことで
出世の道が絶たれた。そこで次期政権の最有
力者、家康に出世の望みを託そうとしていた
のだ。
 杉原重治は四十五歳。今は高台院と称して
いるねねの叔父、杉原家次の養子になり長く
秀吉に仕えていた。
 杉原は稲葉と違い、忠義を選んだ。
「三成殿を首謀者とするのはいかがなものか。
家康殿は豊臣家と直接争うことを避けるため
にそのように触れ回っているのではあるまい
か。まだ幼き秀頼様を補佐する役目の家康殿
が勝手な振る舞いをしているのは許せません。
秀頼様をお守りするのが大事と心得ます」
 松野重元は四十九歳。秀吉に仕えていたが、
秀秋が筑前に移った時に鉄砲頭としてつき従っ
た。重元は治水工事なども得意としていた。
「三成殿には越前・北ノ庄に移る時に親身に
面倒を見ていただいた恩義がございます。そ
のご恩を忘れてはなりません」
 岩見重太郎は三十二歳。小早川隆景に仕え
養子になる秀秋の家臣となるよう命じられた。
軍学に長け、剣術指南役でもあった。
「殿は大殿の後継者になられたいじょう、毛
利家、吉川家と共に行動していただきたい」
 平岡頼勝は四十一歳。諸国を流浪した後、
秀秋に仕えるようになった。家康との使者役
をすることが多く、家康から高く評価されて
いた。
「御殿のいかなる命にも従います」
 沈着冷静な平岡はいつも何を考えているの
か分からなかった。
 こうして秀秋は皆から意見を聞くことで、
それぞれの立場を尊重し、またその違いを把
握することに努めた。そして最終的な判断は
秀秋自身がして意見対立することを避けた。
 秀秋は十九歳とは思えない眼光の鋭さにな
り、皆の顔を見渡して話し始めた。
「わしは松野の申したとおり三成殿に恩義が
ある。それと同じように家康殿にもこの領地
を戻してもろうた恩義がある。こたびは輝元
殿の命に従い三成殿に味方するが、いずれ家
康殿にも恩を返すつもりじゃ」
 問題を解決する方法は必ず何通りかあるも
のだ。普通は多数決などでひとつに決めて実
行する。そのため少数意見が無視され一部の
者に不満が残ってしまう。秀秋はこれを回避
するため問題解決の優先順位を決めて少数意
見も残しておく。多数意見が必ず良い結果に
なるとは限らないので、その時には少数意見
が活きてくる。これは秀秋が実の親から離さ
れ、養子として生活しているうちに人間関係
を円滑に保つため自然に身につけた知恵だっ
た。
 それから秀秋は脇に置いてあった新しい陣
羽織を広げて見せた。それは鮮やかな緋色の
猩々緋羅紗地に背中は諏訪明神の違い鎌模様
を大きくあしらっていた。秀秋は陣羽織を握
り締め怒りを込めひときわ大きな声で言い放っ
た。
「この緋色は朝鮮で流した血の色じゃ。家康
も三成もこの血の犠牲をなんと思うて争うの
か。わしらは田畑を血で染め大地を汚すため
に生きておるのか。それともこの鎌を握りし
め田畑を耕し大地を生かすのか。世に問うて
今こそ天下を耕す時ぞ」
 この言葉に一同にも気合が入った。

 それからしばらくして今度は城に三成の使
者がやって来た。
 にわかに城内が慌しくなり、秀秋のもとに
杉原、稲葉が駆け込んだ。
 秀秋は少し横になり、だらしない格好で老
子の書に目をとおしていた。
 老子は大陸、明から伝わった哲学書で、混
乱の時代を生き抜く知恵が書かれていた。
 今まで秀秋は藤原惺窩から帝王学や兵法な
どの書物を読み聞かせてもらっていたが、あ
まり真剣に聞いていたとはいえなかった。そ
の上、これから起きることはかつて経験した
ことのない時代の変化だ。これを前に秀秋で
さえ判断のよりどころとして哲学書を読んで
いたのだ。
(もう少し惺窩先生の話をよく聞いておけば
よかったなぁ)
 秀秋の傍らには明の兵法書、孫子や呉子、
哲学書の荘子などが無造作に置かれていた。
 秀秋を見つけた杉原は一礼して座り、後か
らきた稲葉もゆっくりと座った。
 杉原は荒れた呼吸を整えようと深く息を吸っ
て秀秋に聞いた。
「家康殿が動きました。先ほどの三成殿の使
者はそのことで来たのですか」
 秀秋は老子の書を流し読みしながら身体を
起こした。
「ああ、伏見城攻めに加わるよう、言ってき
た」
 伏見城は秀吉の居城だったが、その死後、
家康が移り、政務を取り仕切っていた。とこ
ろがこの時期に家康は上杉景勝の討伐という
名目で伏見城を出て江戸城へ入城したのだ。
 杉原は顔を高揚させた。
「決戦にございます」
 稲葉は冷静に言った。
「いや、まだ決戦は先です」
 杉原はやっと落ち着き、独り言のようにつ
ぶやいた。
「家康殿が留守の隙に伏見城を攻めるとは……」
 稲葉は三成を軽く見ていた。
「三成殿はこれが家康殿の策略とは気づかな
いのです」
 秀秋は老子の書を閉じ、三成の性格を読ん
だ。
「いや、誘いにのったんだろ。避けては通れ
んから」
 この時代は陰謀が渦巻き、誰も信じられな
くなっていた。
 稲葉はまだ家康に味方することをあきらめ
きれずにいた。
「ここは様子を見ては」
 秀秋はもっと先のことをにらんでいた。
「俺はこの時を待っていたんだ。前にも話し
たように三成には減封になった時に家臣の面
倒を見てもらった借りがある。ここで恩を返
しておけば後腐れがない。俺は伏見城攻めに
加わる」

【小説:小早川秀秋】決起

 慶長五年(一六〇〇年)七月二日
 家康の命令で大谷吉継は兵千人を率いて会
津征伐に向かった。その途中、吉継は三成の
真意を探るために会い、その情報を家康に知
らせる役を願い出て許されていた。そこで吉
継は三成の蟄居している近江・佐和山城に近
い美濃の垂井宿に向かった。この近くには関ヶ
原がある。
 垂井宿に着いた吉継はすぐに三成のもとへ
使者を向かわせ、近くに来ていることを伝え
させた。
 しばらくすると三成の使者がやって来て、
佐和山城で会うことになり、吉継は数人の従
者だけを連れて向かった。
 佐和山城では三成が出迎え、目に涙をため
て吉継に近づき吉継の身体を支えた。吉継は
目が見えなかったが三成が痩せたように感じ
て体調を気づかった。
 三成はまるで書物庫のように沢山の書物が
積まれている書斎に吉継を案内し、二人きり
で話し合った。
「周りは全部、書物です。暇というのはあり
がたいものですね。忙しくて読めなかった書
物を全て読み終えましたよ」
 この年で三成は四十一歳、吉継は四十二歳
とそんなに年齢は離れていないが三成は吉継
を兄のように慕い敬っていた。
「そうか元気そうでなによりだ」
「はい。人というのは己の行く道を決めると
肝がすわるものですね」
「ほぅ。もう決まったか。してどう決めた」
「はい。まず大坂城に入ります。それから秀
頼様に後見人は輝元殿だと天下に号令してい
ただきます。そして家康を逆臣として輝元殿
に討伐命令を出していただきます。それでも
家康が刃向かうようであれば、伏見城を焼き
払い、大坂城に籠城して迎え撃ちます。この
時、場合によっては帝に輝元殿の居城、広島
城にお移り願います。すでに輝元殿には了承
をえています」
「後は豊臣家を見限った者たちがどう動くか
だな」
「そちらの手はずはどうです」
「牙はもいだが、家康の優位は変わっていな
い。予想以上に豊臣家に反感を持つ者が多い
ぞ。今の秀頼様にどれだの効力があるか。も
う少し時があれば家康は自滅するのだが」
「時のめぐりあわせを嘆いてもしかたありま
せん。この結果いかんでは異国に侵略される
ことも覚悟しなければいけないのです。我々
は今やれることを考えるのみです」
「そうだな。この話を家康が聞いて和睦の道
を選べばよいのだが」
「私もそれを願っています」
 吉継は従者を呼び三成の考えを書いた書状
を家康に渡すように命じた。そして次の日、
三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らと会っ
て相談し輝元を盟主にすることが決められた。
この話も吉継によって家康に伝えられたが、
同時に長盛からも密告された。
 家康は吉継と長盛の情報を照らし合わせて
嘘がないかを確認するほど用心深くなってい
た。その情報から三成が挙兵すると確信した
家康はあえて誘い出すために老臣、鳥居元忠
と兵千八百人に伏見城の留守を任せて、家康
自ら会津に出陣した。
 三成と吉継は家康が期待していた和睦の道
ではなく戦う道を選んだことを知ると、やむ
を得ず輝元、長盛、長束正家、宇喜多秀家ら
と供に挙兵し大坂城に乗り込んだ。そして秀
頼の正当な後見人は輝元だと天下に号令した。
そのうえで家康に十三カ条の弾劾状を送った。
この時、家康の密命を受けた長盛は京にいる
諸大名の妻子を人質にするように提案して実
行した。
 長盛は家臣に命じて細川忠興の正室、ガラ
シャがキリシタンの洗礼を受け自刃すること
ができないことを利用して殺させ、三成らの
印象を悪くし、家康は味方する者を増やすこ
とに成功した。
 それでも西からは諸大名が次々と大坂に入
り、兵の総数は九万三千人を超えていた。し
かし全ての者が同じ志で集まったのではなく
長盛のように家康と内通している者や島津義
弘のように家康から伏見城の留守居役を頼ま
れたが反故にして来た者、また家康そのもの
に反感を抱く者などさまざまで、豊臣家を守
ろうとする者はごくわずかだった。そうした
中に秀秋も混ざっていた。