オールトの雲~むはむは映画備忘録~

オールトの雲~むはむは映画備忘録~

2004年の誕生日。
「映画を趣味にしよう」と思いました。
それからずっと映画が生活の中心でした。

Amebaでブログを始めよう!
随分と久々に見たくなったので、鑑賞。

ミッシェルガンエレファントの音楽が
この映画の痛切な衝動を見事に表現している。
そして映像の粗っぽさ、
絶妙な会話の無い間が松本大洋の世界観をも引き出している。
漫画には無い、映像ならではの要素が
原作に負けない作品になっていると思う。



漫画の世界を表現するのは非常に難しいと思う。
しかも松本大洋のような
独特な世界観を以って描く人の作品は尚のこと。
多くの人が鑑賞後、
イメージと違ったり期待通りじゃなくてガックリきた経験があると思う。
ただ、それは当たり前のことなのだ。
映画は漫画と違って 
三次元でキャラクターが動き回り 
色があって 演者が実在していて、何より音楽がある。
これらを駆使して世界観を表現するのだから、
当然表現の幅は広がり、そこには原作とは違う世界が広がる。
とは言えど、
原作の忠実性は必要だと思う。
しかし、それは物語やキャラクターの格好が
原作とそのままの形で迎合されることを言いたいのではない。
世界観や雰囲気、価値観の面で忠実性が必要という話。
映画には作り手の個性がなくてはいけない。
それは原作者の個性とは違うものとして存在していなくてはいけない。
だから、
根本的な世界観や価値観は原作に忠実であれば、
物語は極端にいじってもいいと思う。

今、日本の映画は漫画や小説が映画化する流れが非常に強い。
それは悪いことではなく良いことだと思う。
ただ、オリジナリティが無くて、
流行の俳優を原作どおりのストーリーで描いては勿体無いと思う。
そういう意味で
『ヘルタースケルター』は蜷川監督の色合いがしっかり出てたし、
『海猿』シリーズは原作とは違う
物語とスペクタクルが売れる原因なのだと思う。
そして、
この『青い春』も松本大洋の世界観を壊さず、
丁寧に描いている作品だったと思う。


青い春 [DVD]


フランスを始めとするEU各国で大ヒットし、
東京国際映画祭でもサクラグランプリを受賞するなど、
話題性のあるフランス映画を鑑賞。

率直な感想は
非常に面白く、映画館で見るべき作品だったと思う。

内容は、実話に基づくコミカルなヒューマンドラマ。
ただ『メリーに首ったけ』のようなコメディアンな笑いではなく、
思わずフフッとほくそ笑む類のコミカルさ。
そのコミカルさを生み出す登場人物の個性、
時代遅れの欧州王室風のインテリア、
アメリカ映画には無い会話のテンポや間合い、
ヨーロッパの町並み…
作品を形成する要素が見事に混ざり合い
素晴らしいエスプレッソになっているから
観ていてとても心地よかった。

人によってはこんなのはDVDで良かったというかもしれない。
けれど、
この『最強のふたり』は映画館で見るべき作品なのだ。
日常の雑音から切り離された、
あの暗い空間でガッツリ向き合わないと駄目だ。

公式サイト『最強のふたり』
http://image.excite.co.jp/feed/expub/Excite_ism/2012/E1346211916074/E1346211916074_1.jpg

やっぱり期待を裏切らないのが青島!

前作でサイバーテロという新時代の事件に
ポパイよろしくの身一つで事件に挑む青島は敗北した。
今度は有終の美を飾るかのように
これまで通りの身一つで「戦える」事件に打ち勝つ青島がいた。
そう、これこそが『踊る大捜査線』なんだ!

何作程前からだろう。
いつしか室井さんが上へ上へと上り詰める中で、
警察組織論が浮上し、
鳥飼警視の登場により、更に色合いが強まった。
この鳥飼警視というキャラクターが、
このままでは終わらなさそうな印象である。



小学校のときから続く大好きな作品。
OPが流れてくるだけで、鳥肌が立つ。
それだけに一種の神聖化が個人的な部分で成されているのが、この『踊る~』シリーズ。
それを映画館で存分に体感できるのだから贅沢なお話だと思う。

公式サイト『踊る大捜査線』
http://smart-style.up.d.seesaa.net/smart-style/image/1212.jpg?d=a1
混沌とした薄野を舞台にした
ハードボイルドちっくなミステリー作品。
そんな中に、
ぽっと普段はお笑いキャラで人気の大泉洋が出てくるから
このギャップがたまらない。
そのくせ、周りを固める演者が
松田隆平、小雪、西田俊之、田口トモロヲ・・・と相当ガッツリメンバー。
尚のこと、際立つ大泉!
一挙一動に笑みがこぼれてしまう。
ところが風貌や言動は『カウボーイ・ビバップ』のスパイクの如し。
なんとも不思議な世界観。

この作品には原作があるのだが、僕はそれを読んでいない。
けれど、
恐らく原作とは別物の作品に仕上がっているような気がする。
「大泉洋」がスクリーンで踊れば、
それは原作の主人公とは別物として考えなくちゃいけない。
それだけのインパクトを大泉洋は多くの人に与えられる。
それは彼の俳優ではなく人間としてキャラクターが
テレビを通じて宣伝されて広く浸透しているからなのだろう・・・
今では情報が無造作に降り注ぐ世の中。
こういう俳優だって登場するのは自然だと思うし、とても面白い。
何故なら、
その演者個人の偏見や先入観が
作品上の登場人物を決定付けてしまうのだから。

探偵はBARにいる
シネフィルが映画のために命を張るという斬新な作品。
もうなんと表現すれば良いのかわからないが、
純粋で狂気な映画愛が作品全体に出ている。
作り手も観客も映画が好きであれば
きっと狂気に慄き、純粋な真心に感動を覚えるはず、
そして、
最後の映画に対する熱い想いが素晴らしい。
この作品はこのシーンに尽きる。
僭越ながら、同じ映画を愛する人間として、
簡略にしたこのセリフを載せます。

***

「かつて映画は真に芸術であり、真に娯楽であった。
 現在シネコンでかかっている映画の殆どが娯楽映画です。
 娯楽映画はいくらあっても構わない。
 だが、それで本物の映画を見る機会が無くなることを許してはならない。
 本当の映画を作ろうとしている人は世界中に沢山います。
 ですから、彼らの映画をもっと映画観で見てください。
 真の芸術、真の娯楽に触れてください。
 映画は我々と同様、自由に存在しなくてはならないものです」


CUT
ラブ・ストーリーなんて面白くも何とも無い!
特にハリウッド映画なんか最悪だ。
メグ・ライアンが出てくるようなメロドラマなんか肥溜めにでもぶち込んでおけ!!

かつてはそう思っていた。
基本的にラブストーリーのジャンルに陳列されるような作品は嫌悪していた。
ただ、ラブストーリーと言えど、好きな作品は当然ある。
『カサブランカ』や『ローマの休日』なんかは何度も観ている。
嫌いだったのは
如何にも流行の延長で、軽薄で安直な作品だった。
だから、この『ノッティングヒルの恋人』だって敬遠していた。

そんなときに
親しい映画好きな友人がこの作品の魅力について語っていたのを聞き、
ちょっとした興味を持ったわけなのだ。

結果は、予想以上の面白さに愕然とした。
この名作を今まで避けていた過去を思わず呪ってしまった。
当然、メロドラマ作品がすべて面白いわけではないと思う。
駄作もあれば秀作もある。
ただ僕はその秀作に触れる機会を逃していたのだ・・・


ノッティングヒルの恋人 [DVD]
借りていたから
前作に続いて鑑賞。
まず「BAT BOYS Ⅱ」じゃなくて「Ⅱ BAT」と
toとⅡを掛けてるところが
何となく好き。

作品としては、前作よりもストーリーの一貫性があったり
カーチェイスなんかのシーンは
ありがちではあるものの流行のアクションムービーに負けず劣らずで
暇つぶしとしては楽しめた。

見所を十分に活かしたスッキリ爽快な作品になっていた。
ウィル・スミスの出ているアクションムービー。
暇つぶしにしても
ちょっと微妙な作品だった。

ただ暴れるだけで、
数多のアクションムービーに欠けるスピーディー感。
もう少しそこを重視してくれればなぁ~なんて思ったのでした。
昨日の勢いのまま、エピソードⅡまで鑑賞。

やっぱCGの力というのは、
こうも映像に迫力と力を与えるのかと、しみじみと実感。
同じ物語が、
時間を掛けて今の技術で復活するのは、不思議な感じがする。

さて、このエピソードⅡから
昨日まで見ていたエピソードⅣへと話が急展開していくのだが、
最後のクローン軍の行進に合わせて流れる帝国軍のテーマソングは
やはり堪らない。

この作品には
大量のジェダイナイトが登場してくる作品で、
ライトセイバーが四方八方でブンブン光っているシーンは一番の見所だろう。

ところが、エピソードⅠでも多くのジェダイが新たに登場する。
「確かにエピソードⅠで新しいジェダイたちは登場したが、
エピソードⅡの方が新しいジェダイたちが登場した」ような印象を持つ。
そこにはライトセイバーというジェダイの武器が関係している。

エピソードⅠで新たに登場するメイス・ウィンドら「その他大勢のジェダイたち」は、
ライトセイバーを振るう場面は登場せず、評議会の椅子にどっしり構えているだけ。
「一応、こいつらもジェダイなんだろうな」と懐疑心を含ませた認識でしかない。
ただこの認識を元に
彼らはジェダイとしての存在を許されているわけだ。

何故、そのような懐疑心を持たなくてはならないのか。
それはライトセイバーがジェダイの象徴だからである。
この観念はエピソードⅣ~Ⅵにおいて
ライトセイバーはジェダイの象徴的アイテムとして描かれていることに起因する。
それを振るうだけで
ジェダイとして唯一無二の特異性を持つことが可能だった。
故に、ルーク・スカイウォーカーやオビ・ワン=ケノービは問答無用でジェダイだったのだ。
(もちろん「彼らしかジェダイが生き残っていない」という前提も助長している。)
ところが、
エピソードⅠにてメイス・ウィンドら「その他大勢のジェダイたち」は
ライトセイバーの存在が多少曖昧でもジェダイであることを許されている。
この点から、ライトセイバー=ジェダイという関係は
「その他大勢のジェダイたち」によって切り離されてしまったのだ。

さて、メイス・ウィンドら「その他大勢のジェダイたち」が
何故懐疑心を抱かれながらもジェダイでいられたのか。
単に、オビ・ワンたちに偉そうな態度接してくる上司と部下の関係性ではない。
それならばジェダイでないパドメやパルパティンにも同じことが言える。
彼らがジェダイでいれるのはヨーダという絶対的な存在があったからである。
ヨーダはこれまでの作品で一度もライトセイバーを抜かない。
彼はエピソードⅤにおいて
作中での解説と彼が見せたジェダイの力「フォース」を以って、ジェダイとしての地位を確立したのだ。
正に「その他大勢のジェダイたち」の前進とも言えるキャラクターなのだ。
更には、
ジェダイという存在がルークのみだったエピソードⅤにて「生き残ったもうひとりのジェダイ」という位置付け、
またエピソードⅥでフォースになってオビ・ワンやアナキン・スカイウォーカーと並ぶことで、
ジェダイトしての物語に於けるキーパーソンへと地位を高めることにも成功している。
このライトセイバーを使用しないジェダイの存在が
「その他大勢のジェダイたち」がライトセイバーを使わずにジェダイたらしめている要因なのだ。
彼らはヨーダの無くして、
ライトセイバー=ジェダイの関係を絶つことには成功しなかっただろう。
ところが、
ライトセイバー=ジェダイの関係は表面的に切り離されただけで、本質的なところでは切り離すことは出来なかった。
故に彼らは結局ジェダイであることは許されたが、
「一応、ジェダイだよな」という懐疑心からは解き放たれていないのだ。

本質的なところでライトセイバー=ジェダイという関係を維持したのは、
クワイ・ガン=ジンというジェダイである。
彼はメイス・ウィンドら「その他大勢のジェダイたち」と同じく新キャラとして登場したジェダイである。
ところが、彼はエピソードⅠで登場したジェダイたちの中でも特殊なキャラクターだ。
なぜならクワイ・ガンは「その他大勢のジェダイ」たちと違い
「一応、ジェダイなんだよな」という懐疑心を抱かれていないからである。
彼はジェダイとして許される過程がほかのジェダイたちと異なる。
ライトセイバー=ジェダイという観念が表面的に崩壊するのは
ヨーダを中心とした「その他大勢のジェダイたち」の登場によってだが、
クワイ・ガンは彼らの登場より前(映画の冒頭)からライトセイバーを振るうことで、ジェダイであることを許可されているのだ。
彼は、ヨーダの力を借りずにジェダイとなった唯一の存在であり、
「その他大勢のジェダイたち」を出し抜き、一足早くジェダイとしての地位を得ることに成功ている。
つまり、ライトセイバーを振ることこそ、
「ジェダイなの?」という懐疑心からの解放であり
クワイ・ガンのようなジェダイトしての確固たる立場を築けるのだ。
そして、地位を確立したクワイ・ガンは幸せな笑みを浮かべ果てるのである。

ところが
エピソードⅡでは一転して、誰もがこぞってライトセイバーを抜く。
それが、ヨーダがライトセイバーを抜いたからだ。
ライトセイバーを使用せずにジェダイでいられた絶対的存在のヨーダが
ライトセイバーを使用したことで、
それまでヨーダの存在で維持できていたジェダイの立場が危ぶまれたのである。
だから慌てて彼らはジェダイであるためにライトセイバーを抜くのだ。
ところがこの試みが
晴れて観客のエピソードⅠで抱いた懐疑心を晴らすことに成功したのだ。
これで彼らも立派なジェダイになれた。
おめでとう。
そのご褒美はペプシコーラのボトルキャップになれることだ!

さて、
無事にジェダイになれた「その他大勢のジェダイたち」だが
クワイ・ガンのように果てることはなかった。
彼らは物語上、
クワイ・ガン同様果てる設定になっている。
彼らがどう果てていくのかというのが
エピソードⅢの注目すべき点になっていくのだろう。