メールによると、明日、先生が帰国される予定とのこと。
自分でも驚くくらいに気が漫ろだ。何だかとても変な感じだ。
先生のメールの署名欄には、最終講義へのリンクがあった。
YouTubeで公開されている。足を運べなかった最終講義を聴くことができた。有難いことだ。
そして、改めてメールを開いたときに、ブログのURLがあるのを見つけた。
「これは読んでいいとうことか?」
「読まなければいけないとうことか?」
私は自分に問いかけた。
「気付かなかった、ということにして、見ないという選択もあるよ」という声もする。
先生が、無自覚に私のメールにURLをつけてくることなど、まずありえない。
だとしたら、私はスルーできない。
読むか読まないか選択するべきではないか?
私は先生が何を見ているのか、関心がないのか?
「いや、関心はある」
私はリンクを開いてブログを読んだ。アクセス記録は残るので、読者申請をした。申請は許可された。
先生の耳と耳の間に流れることばを、少し離れたところから私は垣間見た。
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指導教官が亡くなったとき、葬儀は神道で行われた。
勤務日だったので私は参列できなかった(SCに有給や忌引きはない)が、
祝詞でその人の生涯が語られたのだという。
先生のヴァイジーで、アナリザンドだった姐さんは「ショッキングだった」と私に言った。心の中で叫んでいた、という。
姐さんは生身の先生について、ほとんど興味をもたない人だった(少なくとも私にはそう見えた)。心理療法のことを一心に考えて、入学以前から指導教官のもとで学び、内弟子として臨床をしていた人だった。先生と議論を戦わせるし、臨床での胆の据わり具合はハンパではない。
それでもかなりショックだったとのことだった。
まるで強制的に心をひき剥がされるような出来事だったのだろう。
神道で人が亡くなる、というのはそういうことなのだろうか。私はよく知らないけれど。
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そういえば、私も生身の先生にはあまり興味をもたない。先生のところへ行ったときは、自分がいっぱいいっぱいだった、ということもある。
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「好きなものについて、好きな人について、自分がそれのどこが好きなのか、考えなさい。『ぜんぶ好き』ではいけない。それでは盲目になってしまう」。小学校6年生のときの担任の言葉だ。心に響くものがあったので、いらい私は自分の心ひかれるものについて、ことについて、省みることが習慣になった。
でも、先生が「どうして私のところに分析を受けに来たのですか?」と聞かれたとき、私はうまく答えられなかった。(…たしかそれで、最初の希望はかなわなかった)
今なら、もう少し言葉で話せるような気がする。
あのときには他に私は差し迫った事情があった。今は自分の課題が頭のなかにある。それは自分の生来もっている性質に由来しているのかもしれないとも思う。それをどう克服するのか、克服しないのか…考えていかないといけない。
…話が横にそれたかもしれない(よくない癖だ)。
先生の書いたものを読んで、
人の根は深いものなのだ、としみじみと感じた。あたりまえのことなのだけれど。
根は深い。梢は見上げることができる。でも根は目で見ることはできない。ちょっと掘っただけではその先端がどこまで届いているのか、そこからどんな糧を吸い上げているのかは、わからない。ただただ、その深さを思って首を垂れることしかできない。
その根を掘るのは私の仕事ではない。
いまの私の仕事は自分の根を張ること。
