なにごとも猶予なく思い込んで決めつけては、あとから少しずつ、誤魔化すように座標をずらしていく。これが恥でなくてなんなのかと思う。頭がかたいから、自分の常識や感覚の範疇の外にあるものを基本的に貶してかかっている。異様に攻撃的で、横柄で、勝ち負けでもないのに自分の正しさでなにかしらを圧倒したくて、すべてマイナスからスタートする。こうやって根本的に人を見下しているのに、自分を誇れる度胸も材料も、努力の実績もない。だから人や状況、物事を知れば知るほど恥ずかしくて泣きそうになりながら、何度も何度も過去のそういう自分を反芻しながら、固まりはじめた泥粘土に少しずつ水を加えて変形させるみたいに、いつでも柔軟であれと願って誓っていく。本当にまともになりたい。あらゆる第一手を変えたいと考え続けて、審判をする自分をその場で立てることが少しずつできそうだが、やっぱりまだ力が弱い。意志の強さに欠けて、気分の荒波に飲まれた振る舞いや逡巡をして、またいつものように自己嫌悪する。
はやく死んでしまいたい。自分のことをいっさい認められない自分と、まあそこそこなんちゃう?てちょっと高いところにいようとする自分がいて、後者が勝つときはおおむねろくでもない。高いところに長くいられるだけの持ち物の備蓄がないからだ。ずっと恥ずかしい、平たいところに立って平たいままで、知らないことや知らない人、考えてもわからないこと、自分や他人のプライドに優劣、無力さを素直に受け入れる力。素直さと柔軟さに欠けた、あまりに頑固でくだらない、閉鎖的で無駄な20年を生きてきた。いつもすべての決断を誤った。思い込みだけでつまづいた。手本を見て考え、先を見据えた行動することはいつでもとても難しかった。その先で過去を省みるとき、それでもやっぱり学びきれなかったことがいつまでも悔やまれて、何もかも戻ってこないことだけがいつまでも苦しくてつらい。自分にはいっさい価値がなく、何ひとつも誇るべきでなく、承認欲求をもつべきでなく、だれよりも低いところにいるという自覚がなによりも自分を守っていけると確信できる。自分を巣食うどんな痛みも悩みも、他の人たちの苦労や経験には決して及ばない。凪いでいたい、何にも揺さぶられない低い目線に死ぬまで居たい。はやく死にたい。
先日、地元の名古屋港水族館に行った
水族館の魚たちよりも隣の施設に飾られていた無数のフィギュアに夢中になった。
だう、と書かれた方がわたし