個人の幸福追求について考えるに「タナトスの本能」および「共時性の原則」を自分なりに考え抜きたい。
「個人の幸福追求権」(Full major of pursuit of happiness) こそが、最も尊重されるべき価値と考えたい。
国家、社会や企業といった集団も「幸福追求」をミッションとするのは、それが価値合理な理論で賛同されるというより人間の価値的本能に根ざすからではないか。
幸福には様々な形があり、個人によってその定義は異なるとする、価値相対主義の考え、
すなわち「絶対的な幸福はない、よって幸福権ではなく、幸福追求権が自由主義の根源」という価値観を支持しよう。
憲法学にある、創造主により与えられた幸福追求権を担保するための社会システムとしての三権分立も支持しよう。
そして自然権としての自由権は常にあらゆる権力者による剥奪と、自由権を保護する不作為から身を守るために言論を武器として戦わなくてはならないことにも支持する。
一方、深層心理学としてはどうであろうか? 原型、共時性の原則、タナトスの本能・・・ これらの研究は人間には共通の幸福がある、それを成すためならば死さえも本能として行動するという方向を示してはいないであろうか? 人間にはすべての人に適用される絶対的な幸福というものがある、と考えるのは危険だ。私はそのような意見は価値相対主義の限界であり、絶対的な幸福権など、特にそれが国家、社会、企業が主張するするのであれば、なおさら、正しい、正しくない以前の問題として、それを信用することができない。
人間にタナトス(死への欲求)の本能はない。Appleの創始者スティーブ・ジョブズが言うように「天国に行きたいと望んでいるものでも「死」を選択しないのだ」
死は人間の成功、期待、名声、それらを忘れさせる位、恐怖であり、それが故に本当に必要なもの、生きる意味、を選抜する感情であり、必ず死ぬということは
誰もに「生きる意味」を恐怖をもって知らしめるものなのではないか? 生きる意味、自分の人生が正しく進んでいるか? 正夢に象徴される「共時性の原則」は、あなたの道は間違っていないとの
証ではないか? もし、正夢を見ない、何日も何日も「ちがう」と心が叫べば「死にたい」と思うが、それは死への欲求=タナトスの本能によるものではない。タナトスの本能は「自らの死を超えても他者を救おうとする、共時性がもたらすときにだけ発揮されるのではないであろうか?