「にゃー!」
いやそこまで別におかしくはなっていなかったけど、何となくそんな気分だったし、猫がいないのには本当に焦っていたけど、どこかで俺は、気分が良かったのかもしれない。かかってきた電話が西だったからという理由だったらどうしよう。いっそこのまま告白でもするかな。
「えー、ちょっとどうしたんですか柴田さん、なんすかそれ」
そうだわな、そうなるわな普通。うん、間違ってない反応で嬉しく思うよ俺は。なんとなく落ち着かないので部屋をウロウロして、目についた雑誌や洋服なんかをなんとなく片付けながら、今電話している彼氏が今から部屋に来る女みたいだなーと思う。実際はどうかわからないけど。なに、このどこかしらからくるウキウキ感。気持ちわりーな、俺。
「猫、いねーの」
「猫?あ、あーあの。なんでしたっけ、彼女のお父さんの名前の」
……思い出した、そうだ、なぜか飼い主の父親の名前をつけられていた猫。なんだっけ。
「そー、ひろ、ひろき、あいつ、いねーの」
なんか、名前をいうと、ちょっとだけ小綺麗で、観葉植物とかが置いてある銀河系の家で、一度しか会ったことのない親父の顔がぼんやり浮かんできて、全く悪気のない笑顔でまぁまぁって勧められた発泡酒がまずくて無理矢理飲んだらまぁまぁってまたグラスいっぱいに注がれて早く帰りたかったことを思い出してひどくいやな気持ちになった。だから、というわけじゃなかったけど、俺はお父さん、とも呼ばなかったし、いや、呼べなかったし、猫のことも名前で呼んだことはなかった。可愛がったけど今初めて呼んだ、というか口に出して発音した。
「いなくなったんすか?
「うん、ってゆーか」
「あ、や、今日柴田さん締め切りでしょ?入稿終わってんならメシでもどうかなと思って」
てゆーか、と言っただけで、俺が言いたいことがわかる。そりゃ間違えることもあるし、聞き返されるときもあるけど、ほとんどの確率で命中する。もうほんと、まったくもうスキなんじゃねーの、俺のことが。てゆーかの後がわかるだけでは飽き足らないわけね、なんでスケジュールまで把握してんのよもう、愛してるよほんともう、昨日行ったじゃん、なんか言うわけないよ行こうぜ今日も明日もあさっても。それはヤだけどもう地球の果てまでご一緒するぜとまでは思わないけど、いつもいいタイミングの西に、そして、俺をメシに誘うのは驕ってもらえるからだとかそういう意地汚い考えが全くなくて、ただ単にピュアにおなかがすいて、俺とメシを食おうとしか考えていない感じがたまらなく愛おしいよね。
ヨメは、と愛おしついでにヨメの心配もしてやる。俺だってある程度は大人だし、それくらいはできる。大丈夫ですよという返事を予想してのことだけど、二人には、二人のためにも俺の為にも別れてほしくなかった。だってもしそうなったら、たとえ違う理由だといわれても俺は俺のせいにしてしまうだろうから。それから、なによりも、結婚式の時、それよりも前から、西がヨメと一緒になって、この上なく誰よりも宇宙一幸せだという顔をしているので、そんな西がちょっと気持ち悪いなと思いつつ、悲しい思いをしてほしくない。しかもそれが俺のせいだなんてなった日にゃ、西は俺を責めることもなく、自分を責めるだろうし、とにかく別れてほしくないのである。
「今日は実家帰ってるんですよ」
「なに、ケンカ?」
あっさりした言い方だったので、不穏な空気は感じなかったけど、一応、実家イコールみたいなところがあるのでサラッと訊いてみる。片付けがなんとなくだいたい終わったので、移動ついでにもう一回キャットフードを眺めてみる。変化なし。そりゃそうだけど。
「いえ、妹が帰ってくるそうです」
「あ、そ、で?」
俺は、煙草も吸うし、酒も飲むし、ゴミも捨てるけど、会話に関してはエコではないかと思う。特に、西との会話のときはものすごく省エネで、酸素もあんまり使わないし二酸化炭素もそんなに出さないと思う。
「渋谷行きませんか? てゆうか」
「なに?」
俺が西の、てゆうかの後に続く言葉や何が言いたいのかなんてわかったことはなかったし、考えたこともなかったので、素直になに、と答える。悪いことじゃない、西がよくできているだけだと思うから。
「探さなくていいんですか? 猫」
「……今日はいいわ、とりあえずメシ食おうぜ」
注がれたまずい発泡酒を思い出してしまったので、口なおしをしたかったのか、それとも、何かから逃れたかったのか。癒し、そう、西に癒されたかったのだ、俺は。
家に戻ると携帯電話が鳴っていた。はいはいはいって急いで靴を脱いでPCの横に鎮座する電話を手にすると音が切れた。ドラマみたいね、なんて思いながら着信の相手を見ると担当者だった。だいたいの見当はついていたのでああそうかくらいしか思わなかった。相手を見てバイブに切り替える方がよっぽどドラマチックでクールだよな。そんなことめったにしねーもんな。律儀な俺だもの。律儀だけれど、かけなおすのもなんとなく嫌だったのでそのままなんとなく椅子に座ってスクリーンセーバーを解除するとまた真っ白な画面に四角い長方形があるだけで、さっきから煙草を吸うのを忘れてたことに気がついた。甘いコーヒー事件のせいで忘れてたんだ。毎日甘いコーヒー事件があれば禁煙できるんじゃないか、でも毎日あんなもの飲みたくもないので禁禁煙を続ける。煙を吐いて画面にとりあえずの適当に円を描いたら、そこから俺の手は止まらなくなった。

久しぶりかも知れなかった。取りかかってから自分がこれでいいか、と思うまで煙草を吸ったり、コーヒーを飲んだり、急に部屋の整理をしたり、エロ本読んだり、DVD観ながら寝てしまったり、西を飯に誘ったりしなかったのは。追いつめられるとこんなふうになるのか、やるじゃん俺。後で直しが入るのは別として、とりあえず困っているだろう担当者に電話をかけた。申し訳なさそうな、フリかもしれなかったけど、俺の機嫌を伺いながらなのわかる、もしもしだった。
「あの、締め切りなんですが……」
言いにくそうに切り出してくれたのに、俺は調子に乗った感じで最後の方かぶせ気味で言ってしまった。
「あーはい、できましたよ」
「え、ほんとですか! あ、あーすいません」
電話口の向こうで書類だかなんだかがバサバサ音を立てた。たぶん慌てているんだろうかわいそうに。しかも軽く謝ると、締め切りを明日に延ばしてくれていたことを告白された。きっとこの担当は電話をしながら頭を下げてしまうタイプだろうなと思いながら、いたって冷静にできましたの報告を続ける。
「すいません、俺がなんか、あんなだったからですよね、すいません」
「いえこちらもなんかすいません」
すいませんもこんなに使うとすいません感がなくなるよな。
かろうじて納期は守る柴田さんをキープできたので、彼女にフラレて納期が遅れる柴田さんにならずにすんでよかった。いや担当者は別にそんなこと知らないだろうけど。送信したあとトイレに行って帰ってくるとき、遠くから見たまだ残っていた出来上がった画面のそれが何かを思い出させようとしたけどどうせ銀河系関係だろうなって思ったので考えるのをやめた。なんだよ、銀河系関係って。いつになったら銀河系から離れられるんだろう俺、いや地球から離れたいとかじゃなく。
長い間煙草を吸ってなかったので、立て続けに吸っていた三本目に火をつけようとした時、とんでもないことに気がついた。
猫、いねーじゃん。
付き合い初めの頃、彼女が、基、元彼女、略して銀河系が持ち込んだ猫。彼女よりも俺に懐いてしまったので、彼女が自分ちに帰るときも連れて帰らずにいつも俺の家にいた猫。彼女が俺に会いに来るのか、猫に会いに来るのかわからないときがあった猫。いつからいないのか只今不明な猫。どこにいった? いつから? 最後に餌あげたのいつだっけ? 慌てて餌のある所に行ってみると、キャットフードはそのままだった。それほどまでに俺は、動揺していたのだろうか。彼女、基、銀河系をそれなりに愛していたのと同じくらいに猫、名前なんだっけもうこの際今は別にいいけど、も愛していたとまではいかなかったとしても俺なりに可愛がっていた。うわぁ猫! どうしよう猫! どこいったのかにゃーなんて言ってる場合じゃねえよ猫! 無事か無事なのか猫! 電話電話鳴ってるよ西! 出るよ出る出る西!
そんな奮闘を誰もが応援してくれるわけでもなく俺はただいまたった一人で戦っていた。あ、そうだ西にでん、あーケータイ忘れてきたんだった。くそう、俺、劣勢。たぶん西がいたらそれはもうステキなスマイルで残したらいいんですよとドライに言ってくれるか、もしくは俺飲みましょうかなんて気の利いたことを言ってくれるはずなのに、愛する西は側にいなかった。念じたら来てくれるかも、とあまりにもくだらない奮闘むなしく、西のかけらもみつからなかったのでこれはもうとうとう諦めて、ある程度飲んでさっさと退散しようと決意をしようとしたとき、変な匂いの横に、なんとなく懐かしい、けど今までに嗅いだ事のない新しい、いいにおいなのかそうでないのかまだわからない匂いがした。食べ物の匂いでない事はわかったので、確認するためにその方向を見ると、可もなく不可もないオンナが座ろうとしているところだった。俺は別に、有名人でもなんでもないので彼女は俺の方を一瞬でも見ることなく迫り来る阿部一号を笑顔で待った。なんだ、今日は。俺の情緒が不安定だからなのか、または阿部一号の情緒が不安定だからなのか、いい天気だからなのか、俺の日常がそうでないもののように思えた。締め切りが迫っていてもまだ入稿できない景色というものはこんなものなのか。いやだなぁ。

彼女は俺の苦悩も知らずに何が楽しいんだか俺のとはまた違った変な柄のテーブルクロスを指でなぞりながら口角をあげて阿部一号を出迎えた。
「今日はひとり?」
「うん、とりあえずコーヒー」
めずらしいね、と阿部一号は言いながら所定の位置に戻ろうとした。めずらしい、というのは、ひとりで来た事なのか、コーヒーを注文した事なのか、どっちでもいいのだけれどちょっとだけ気になった。それはたぶん俺がコーヒーのことに執着していたからか、それとも彼女が一人じゃないのだとしたら誰とこんなところに来るんだろうとちょっと気になってしまったからなのか自分でもよくわからなかった。
「あ、さっちゃん」
阿部一号が振り返る。そうか、なにか、阿部一号は通称さっちゃん、なのか。知ってしまったからには俺の阿部一号が台無しじゃないか。けっこう気に入っていたのに。
「お砂糖とミルクいらないから」
彼女は爽やかに言い放った。今の俺には最も羨ましいセリフだった。何分か前にこの、俺の目の前に置かれているカップにその言葉をかけてやることさえできれば、カップも、コーヒーも、俺も! 幸せだったのに。その言葉を聞いて、阿部一号改め悔しいけど知ってしまったからには言ってみるさっちゃんはチラっと俺の方というより俺のカップを見たのにもかかわらず、見事なまでのノーリアクションで所定の位置にターンした。
俺にとって羨ましいセリフを言ったからか彼女はどことなく満足げに見えた。というか、さっきから彼女の事を一部始終見てしまっている自分があまりにも自然で気がつかなかったけど、見過ぎだよね。かといって冷めてしまった甘いコーヒーを見ても変化を遂げる事なくそれを続けるし、今日のところは諦めて駅前の若者の集うシャレたコーヒー屋でも行くしかないかなと思ったとき、またさっきのよくわからない匂いがした。彼女がスプリングコートを脱いだのだった。よくわからない幾何学模様のワンピースが見えた。
その後すぐに阿部一号改めさっちゃんが彼女のもとに俺にとってはクリスマスプレゼントよりも只今欲しいものナンバーワンの砂糖なしコーヒーを運んできた。隣からは使い方が合ってるかどうかは別として、実に芳醇な、いい香りがしていた。彼女は小さな声でわーい、と呟いた。そうなんだよ、実は俺はここのコーヒーが大好きなんだよ、わーいなんだよ。砂糖なしコーヒーわーいなんだよ。
「あんたも」
上の方から声がしたので見上げると呆れた顔のさっちゃんがクリスマスプレゼントよりも欲しいものを俺にもくれた。
「こっち持ってくよ、悪かったね」
「あ、あー、いや、俺の方こそ……」
ああ俺は、とてつもなく我が侭な客に成り下がってしまってはいないだろうか、これからもここに来る権利はあるのだろうか、かといって俺が来なければさっちゃんは自分のせいだと思って自分を責め続けてここをやめてしまうかも知れない、もしかしたらここのコーヒーをまかされているのはさっちゃんかも知れない。そうなれば俺は二度とここのコーヒーが飲めなくなってしまうじゃないか。最初に砂糖を入れたのはさっちゃんだという事は別として、ようしここはなんとしてもさっちゃん退店を阻止するために俺はこれからもここに来るぞという決意をさっちゃんの背中に誓った。
いつもより特別感が出た目の前の愛おしいコーヒーを一口飲んだらやっぱりわーいだった。そんなわーい味のコーヒーを彼女はどんな顔をして飲んでいるのか気になって見たらやっぱり口角を上げたままで雑誌の映画の特集ページを読んでいた。両手でカップを挟んでる姿がわーいの女バージョンっぽくてなんかいいな、と思った。じゃぁわーいの男バージョンは何か、ガッツポーズ? なんかやだ。
そういえば、こんなところに、容姿は別として女一人で来る心境というのはどういうものなんだろうか。たしかにコーヒーはわーいだけど、近くには小洒落たカフェもあるし、小マシな喫茶店もあるのに。そういえば、さっちゃんは、めずらしい、と言っていた。一人が、もしくはコーヒーが、だったとしても、さっちゃん、と知っているということはどっちにしてもここにはよく来ている、いわゆる常連さん、なのか。かくいう俺もいわゆる常連さんであるはずなのに一度も出会った事はなかった。まぁタイミングが合わなかったといえばそれまでだけど、俺は、阿部一号がさっちゃんであることはさっきまで知らなかったので、もしかしたら常連さんの先輩なんだろうか。わーいの先輩。なんだそれ。幾何学模様のワンピースを見て、規則正しく重なった輪の中に吸い込まれそうになりながらそんなくだらないことを考えて、締め切りが今日だったことをぼんやり思い出したので、なんとなく、戻らなきゃなという気になって、結局、可もなく不可もない彼女のめずらしいがどっちかわからないまま席を立ったとき、彼女の携帯電話が鳴った。彼女は画面に映る着信相手を確認してからマナーモードに切り替えた。バイブ音が彼女に出て欲しそうに訴えていたのに、彼女はかまわず雑誌に目を移した。まぁそういうときもあるわな、くらいでポケットの小銭を確認しながらレジに向かった。
「これ、多いよ」
「いや二杯分だから」
「いらないよ、あれは」
「いいんです、気分がいいので」
「そうかい、じゃぁ遠慮なくもらっとくよ」
「はい」
「身体こわすんじゃないよ」
「こうみえて丈夫なんです」
「またおいで」
そう言ってさっちゃんはお客さんに呼ばれたので仕事を続けた。これから、俺にとってさっちゃん、になるのかな、なんかそれはやだなぁ。せっかく阿部一号というかっちょいい呼び名を考えたのに。そしてこれからは、さっちゃんとおしゃべりしなきゃならないのか、あんまりそれは求めてないんだけど、俺は。気分がいいので、なんてなんで言ったんだろう。いい天気だからか。気分なんていいはずがない。彼女にフラれた傷が、女々しくもまだ癒えてないのに。
入稿した後と、そうでないギリギリでしかもみっともない電話の切り方をして不味いコーヒーを飲んだ後と、同じ道でもこうも景色が違うものかと感動すらする。通りすがりの看板やポスターや犬の顔ですらバランスが悪いとか、色使いがキモチワルイとか、意識をうっかり手放すとそういったネガティブな感情ばかりが脳内を占めて、あーよくないなぁとかふと我に返ったりして、いや、でも、超ご機嫌様な俺様モードでも男前な犬がいないものかと探してみたりするのであんまり変わりはないかもしれないけどとにかくご機嫌ナナメ様な俺様はここ何年もつかず離れずの絶妙な関係を保っている定食屋に入った。天気、晴れ。どっちかというと快晴。見上げる勇気、なし。

相変わらず、を何年も続けているので、今日も相変わらずは続行中で、老けも若返りもしない不思議な普通の相変わらずなおばちゃんが俺のテーブルに迫ってくる。なんとなく、迫ってくる。歩いてるんだけれど、迫ってくる、がふさわしい。

いつもの? はい。熟年夫婦のようなやりとりで、注文作業をすます。所要時間なんか、俺の人生に比べたらゼロに等しいけど、今まで俺はこの作業を幾度となく繰り返してるので、もしかしたら合計ものすごい時間かもしれなかった。初めはもうちょっと会話、というものをしていたのかもしれ、あ、ケータイ忘れちった、ま、いっか。もとい、会話というものをしていたかもしれなかったけど、すっかりもう俺にとっておばちゃんはマシーンのようになっていた。この、マシーンという表現をうっかり面白くないという意味の普通の人間にしてしまったら、血の通う人を機械のようにいうなんて、とかもう困り笑いが夜まで続くくらいの面白くもなんともない普通の意見をこれみよがしに言うだろうから気持ち悪いので言わないけど、言う機会もそもそもないけど、俺のこの、マシーンという表現は寧ろ賞賛に値するものであって、全く無駄のない、必要最高限の動きでもっていつも通りに美味いコーヒーを運んできてくれる。おばちゃんサイコー!イエイ!という気持ちからの、マシーンで、イコール愛しています、かも知れないくらいのマシーンおばちゃん、名前も忘れちゃったけど、必要ないもの。マシーンだから。あ、こういう言い方はよくないな。まぁ今日は阿部さん、にしようか。阿部一号、あ、こういうのもよくないかな。なんてくだらなすぎて3回目のため息をつく為に息を吸ったらコーヒーが運ばれてきていい香りを不本意な形で吸い込んでしまって一回もったいなかった。

「あれ」
「今日はそれ入れて飲みな」
「あー、俺、甘いコーヒー飲めないんすよ」
「いーから、あんた今にも死んでしまいそうな顔してんだから、ほら」

ああ、俺のマシーンが。俺の? いや、あー、もう、今までせっかく培ってきた? 築き上げてきた? 育んできた? なんかもうどれでもいいけど、ステキなマシーンが、壊れちゃった、どうしようお母さん! 新しいのはもう売ってないの。マシーンが喋りだしちゃった、意思を持っちゃった、俺も答えちゃった! やだやだそんなのやだ! なに俺が名字とか即席につけちゃったからなの? だったらさっきのなしにするから! もっとこう、マシーンぽいのにするからさぁ! お願いしますよ、僕は、この場所にコミュニケーションなんか一ミリも求めていないのに! あーあー、どうしよう細長い紙の頭ちぎってサラサラとグラニュー糖なんか入れちゃってるし、甘いコーヒーもやだし、喋る阿部一号もやだ!

世の中のどんなに苦いコーヒーを飲んだとしてもできないくらいの苦い顔をしながら甘いコーヒーの変な匂いを嗅いでみると阿部一号、もう、こうなったら阿部一号で決定するけど、阿部一号は満足げなのか不満げなのか確認していないのでわからなかったけど、ここで死なれちゃ困るんだよねぇと言いながら相変わらずの待機場所に戻った。あれ、なに、ちょっと、いーじゃんそのスタンス。そう、せめてもの距離、その距離。いやでもちょっと待てよ、この、俺のよかったじゃんという気持ちは、阿部一号がもっと俺の中にずけずけ入ってきて、俺の体調の心配をするようなことを言ってきたりとか、まだまだ会話が続いて、今日の天候とか、オススメの定食の話とか、旦那さんとの馴れ初めとか、その流れで嫁の心配とかをされる感じで進行してしまう恐怖におののいていたのが意外とあっさり終わったからなのであって、よく考えたら良くも悪くも、少なくともいつもとは違う行動をしてしまったのだ、阿部一号は。そして俺も。
あは、今日はなんだかいつもと違ってなんかステキな事がありそうだわ! 太陽さんこんにちは! なんて思えるわけもなく、変な柄が連続してるテーブルクロスの変な柄の一つを眺めながら変な匂いのするコーヒーをどうやっつけるかを考える方法を考えた。
あまりにも突然の出来事に呆然としてしまって、考える事ができなくなってしまいそう、恋かしら、アホか。
もう一回コーヒーを注文するにしても、ダメだったかしらとかなんとか、本当にどれくらい無理なのかを説明する感じにうっかりなってしまったり、飲まないで帰ったら帰ったで、次の来店時にダメだったかしらとかなんとか本当にどれくらい無理なのかを説明する感じにやっぱりなってしまったり、それを避けたい俺はこれをハリウッド俳優のようにスマートに飲み干して、やっぱりこれだよね、くらいの顔をしてスマートに会計を済ませて満足げに立ち去らなければならないのか、いやだそんなの俺俳優じゃねーもん。しかも俳優の方がよく考えたらどっちかって言うとファック! とかゆってコーヒーぶちまけそうだし、でもそれでもスマートっぽいけどとにかくいやなので、しばらく見つめ合ってると、目の前の茶色くて甘い液体野郎はなかなか目を逸らさないので、上等だこのやろうやんのかてめえという顔はせず、あっさり負けを認めて一口飲んでみた、いやこの場合、負けではなく勝ちだよなってやっぱ負けでいいわだってまずいもん。
思い出したように阿部一号を見ても特に変化なく、所定の待機エリアにてスタンバっている。それならそれで初めっから変化のない阿部一号でいて欲しかったよまったく。ついうっかり俺が名前をつけてしまったばっかりに、俺がいつもと違う事をしたから、みたいな感じになってるけれども俺はいつも通りにここに来たのであって責められるべきは俺ではない、かといって阿部も、もうめんどくさいから阿部でいいけど、あ、でもここで変化するとまたおかしな事になってしまうともうすっかり俺が俺を責めなければならなくなってそれはこんなにいい天気の日なのにただでさえご機嫌麗しくないこんな日にそんな目に遭うのはいやなので阿部一号のままでいくことにして、阿部一号も好意でしてくれたのには間違いはないと思いたいので不味いコーヒーはだれのせいでもなかったことにしたい。

とりあえず、思い出パーティ、イン俺ん家は終了していたみたいで、いつもの見慣れた天井と重い胃に嫌気がさしつつ、ホッとした。

夢をみなかったのは幸いだった。いや、夢はみてるはずだったけど、目が覚めた瞬間にすっかり思い出せない状態で不幸中の幸い。どうせみた夢はロクなもんじゃなかっただろうから。でも、夢の中でではオレ超ハッピー!って踊ってたかもしれないと思ったら悔しいので、そんな乙女じみた考えは捨てて、いや電話が鳴ってるだろ、俺。
とりあえず、思いつくだけの言い訳を考えてみたけど、おばあちゃんが危篤、とか、突然高熱が出た、とかくだらない高校生のバイトを休みたいが故に使う言い訳しか出てこないし、俺は少なくとももう少しオトナなので高校生よりもスマートに電話の通話ボタンを押した。タバコを吸いながら。
「あ、おはようございます。」
「あー、はいはい」
「どうですか?」
「あー、もうちょっとなんですけどねぇ」
「あ、そうなんですか!よかったです!で、いつ頃頂けます?」
「でき次第」
「あ、いや、あの、ご存知だと思うんですけど、今日までなんですよ、納期」
「だからでき次第だっつってんの」
「あ、いや、すいません、そうですよね、で、何時頃ですか?」
「でき次第」
「...あ、じゃぁ、また夜電話しますね、すいません、お疲れのとこ...」

あぁ俺は調子に乗った俺の一番嫌いなパターンの人間のような振る舞い方をしてしまった。売れっ子でもないのに、いやそこそこ売れてるはずだけど、途中で電話をきってしまうような事が許される人間ではないのに、いやそれはどんな人間だって道徳的にはしてはいけないことなのよ、いや、いやだ奥さん。はー、井戸端会議とかしてみてーなー!嘘だけど。
ちょっとだけお口が悪いけど、納期はしっかり守るステキな柴田さん、で通ってるのになぁ、通ってるのかなぁ。とにかく、ステキかどうかは別として、納期は守ることを守ってきた俺なので、なんとなくスクリーンセーバーを解除すると目の前には、やっぱり真っ白の長方形しかなかった。喉が渇いたので、デスクに置いてある昨日の飲みかけのコーヒーを飲んだらやたら酸化した味で俺の顔はたぶん今年一番レベルで変な顔になったと思う。どのくらいの変な顔なのかを確認したくなってそのまま洗面所に向かって鏡を見たら別にたいして面白くもない普通の変な顔だったのにがっかりしてとりあえずついでに顔を洗ってみたらちょっとだけなんとなくスッキリした気分に不本意ながらなってしまってもう一回自分の顔を見てもたいして面白くもない普通の顔だった。髭剃りのCMには出れないな、出ねーけど。オファーもないけど。こないだ髭剃りで顎切ったしな。切れてなくないしな。
負のオーラが部屋中に充満している事は知っている。どうしようもないので空気を変えるためとまずいコーヒーを飲んだ事によって美味いコーヒーが飲みたくなったので、いつものところに現実逃避ではなく、現実回避するためにそこそこの洋服に着替えて出かけてみたら意外といい天気で、不本意にもちょっとだけテンションがあがった。