古代ギリシャでは、民主主義が今と同じように確立していました。
有権者が広場に集まり、合議制で政治を行っていました。
議論を戦わせ、討論によって決めていたわけです。
いわゆる「直接民主制」です。
しかし、時代が下るにつれ、その「議論」に勝つということが
手段として悪い方に洗練され、とにかく相手を言い負かせば良いと
いう弁論術に長けた(アメリカみたいな)集団が現れます。
確か。。。ソフィストだっけ?
ソフィストの下に進んだ直接民主制は煽動や過激な意見に
大きく左右されることになり、政治は当然乱れ、その端的な
結果として、アテネの民主政治は墜落、いや堕落してしまいます。
衆愚政治というヤツです。
その失敗のアレルギーが現代民主主義においては、
同時に基礎として成り立つイデオロギー、「人権」で要請される
平等原則との整合性からは、明らかに「人民(プープル)主権」が
採用されなくてはいけないにも関わらず、
いまだに「国民(ナシオン)主権」の考え方を引きずる結果になっている
わけです。つまりシャア型ですね。「愚民ども」のいうことを逐一正確に
反映させるのではなく、大局的に見る「政治的」判断が出来るエリートに
国家を運営させるべきというスタイルです。
間接民主制というのは国民「が」間接的に政治に参与するという意義と
国民「から」間接的に政治を行うということの二つの意義を含んでいると
いえるわけです。
ウソだって?だってね、私の師匠は、私が外国人にだって、宇宙人にだって
被選挙権は与えていいという意見を言った時に賛成しなかったよ。
選挙権だけ人民(この場合は日本国民)が持って、どんな結果であれ
選挙で選んだわけだから人民の意思であり、受け入れるべきというのが
民主主義だって「定義上は」と言ったら、「人民の意見を忠実に反映して
いいときと悪いときがある」と言っていたね。みなさんも師匠の考え方に
賛成でしょ?
でもそれは、選挙という間接民主制の手段には限界があるということと、
「間接」=距離を置くということ ということの証明なんだよ。
だって、西洋科学的に場合分けを一般化できないでしょ?
さて、ここでここまでの内容をまとめると、
「間接民主制は、直接民主制での欠点を修正するために
間接=距離を置く という手法によって作られたロジックである」ということです。
昨今の選挙事情を見ると、「間接民主制の衆愚政治化」が進んでいるように
思えてなりません。煽動的、誘導的なマスゴミによって世論が操作され
それが情報化の進展により津々浦々まで瞬時に一般化される。
かつての直接民主制下における衆愚政治の克服のために
「選挙による代表者」によって国民からの間接性を獲得した
間接民主制の「間接性」が、情報化とIT化、そしてグローバル化によって
消滅してしまったということです。
これからは「間接民主制の衆愚政治」を克服する民主主義的システムの構築が
課題となります。そしてそれは、間接民主制に民主主義的システムを誘導しなくては
いけなかった事情、「資本主義」によって皮肉にも促進されるはずです。
なぜなら、グローバル化と新自由主義の蔓延の結果、今の世界は主義レベルでも
「市場原理」にさらされており、民主主義の下での資本主義経済は
国家資本主義経済に負けているからです。経済の敗退=国としての敗退ですから
否応なしに対応させるはず。
全く嫌な時代です。そんなに私が生まれたことが地球に優しくなかったかしら。
あ、選挙。だったら、元々衆議院選挙で民主党に入るべきでないんですよ。
革命でもない限り、1年ぽっちで結果が劇的に出るなんてことはないんだから。
そして革命は手段をショートカットしてやろうと(やれると)思うから、すぐ崩壊するの
だから。そもそも、私たちだって仕事や社会において1年で目覚しい結果を出したこと
ないでしょ?ゲームじゃないんだから。
そうか。それも民主主義か^^