メドベがショートと変更という事で、書きかけていた記事をアップです。
オータムクラシックの演技を見た時の感想に、
“あのジュブナイル哲学を体現すると言って鬼トランジションのプロを滑っていた時代と、いつか融合するかな?その化学変化は待ち遠しいけど、今は笑顔が嬉しい!”
と書いた。
私がテレビやネットを通して勝手に感じていた時間感覚だけれど、北京の前シーズンくらいにメドベがやっとこれが自分にとって当たり前の生活だと思えれば良いなあと思っていたから。
ブライアンによると、クリケット式の方法でのスケーティングの基礎が体に染み込むまでに1年半。
この事を、ブライアンはメドベが移籍する以前から、と言うかこれまでもクリケットのコーチとして発言する際、何度も口にしている。
これまで多くの選手を育てた経験から、クリケットで始めた“改革”が身体に染み込み常識となるまでの目安として、確固たる自信があって言葉にしている時間の長さなのだろう。
もともとここまでの劇的な環境の変化に慣れるという事は、思うよりずっと時間のかかるものだ。言語や生活習慣などの物理的な変化はもちろん、今は自分にとっての変化の時とわかっているつもりでも、無意識に起こる感情や「喜怒哀楽の基準」そのものが見えなくなる。
一体、自分にとって何が幸せで何が感動につながるのか、そもそもこんなに心が揺れ動く事をどう受け取ったらいいのか。今感じているこれは、肯定しても良い感情なのか?
オータムの前にこちらから見えていたのは、ジェイソンと笑い合い、クリケのシステムや雰囲気に驚き、プログラムの選択に自分自身が関われる事に感激する姿。
前髪を作って今までにはなかった衣装で(あの衣装もプロも可愛くて好きだけど)、もろ北米な曲を滑るメドベの、これまでの常識が覆って行く中で、一生懸命自分の価値観を再構築しようとする気持ちを痛いほど感じたオータムクラシックの演技だった。
複雑で、陽の気ばかりではない感情を感じているとしても、それも含めていつか「演技」として昇華出来ればいいなと思いながら見ていた。
これまでより自分の意見が通り、自分で選択する事が増えると言う事は、それまでよりセルフプロデュースする能力が問われると言う事。
それは今、クリケットでのメソッドの大きな特徴の一つになっているのではないだろうか。
今までの価値観では甘えだと思っていたものが許され、自由であるように感じる反面、自分を律し成長してゆくために必要な規律は、自分で構築してゆくしかない。
つまり「厳しさ」の定義がそれまでと180度違うのだ。
演技についてだけでなく、人生についてのセルフプロデュース力を身につけるという事が、そう自由で簡単な訳はないよね。
けれど、身につければ何事にも自分の力を信じるスタンスを得る事ができる。
嫉妬やマイナス要因をコーチや環境のせいにせず、自分でどうしても助けが必要なフェーズを選り出す事が出来る。
言うほど簡単ではないだろうけれど、身につければ大きな力になるだろう。
これは、よく言われる羽生くんとハビが上手く関係性を築けた理由の一つでもあるのではないかな。
奇跡的な出会いであった事は間違いないと思うけれどね。
衣装と髪型をロシアにいた頃のように戻したスケカナ。
SPではコンボでの失敗のあとのFSで巻き返して3位。
タンゴの妖艶さよりも、女戦士の気迫を感じた。
この何かに気付いたようなメラメラとした演技に、メドベが新しく出会ったもの、これまで積み上げて来たもの、その全てをぶった切って料理して、選んで捨てて組み替えて、その全てが融合される、その先の「新生ジェーニャ」が作られて行くのはこれからなのだという期待が湧いて、実はちょっとワクワクしたのだ。それが、スケカナの演技に対しての感想だったな。
フランス杯では思ったように行かず辛いだろうと思ったけれど、でもこの前のメラメラがあれば、そして疑問を追求してゆく気持ちがあれば、それもいつかメドベの中からにじみ出す。きっとそれが深みになる。その願いも込めてフランス杯の感想を書いていた。
“あのジュブナイル哲学を体現すると言って鬼トランジションのプロを滑っていた時代と、いつか融合するかな?その化学変化は待ち遠しいけど、今は笑顔が嬉しい!”
環境の変化の荒波の中で、なお笑顔でいようとする健気さを思ってそう書いたけれど、もしかして化学変化は私が思うより早くやってくるのだろうか?!
私は「アンナ・カレーニナ」が好きだけれど、そこに至るまでの「ウォリスとエドワード」も「River Flows in You」も「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」も、ショパンの「夜想曲」も好きなのだ。
その演技の中に、明らかにメドベにしかない哲学が潜んでいたでしょう?
北米っぽくなったりロシア風に戻ったり、そんな揺り戻しがあるなんて事、当たり前にしか思わない。何ならアニオタな部分も大きな武器となってメドベの演技に織り込まれているはず。
ただ、前に一歩踏み出す姿。そんな演技が見られたらうれしいなと思う。
SNSなんぞ捨ておいて、応援は会場で、声援を体一杯に受けてほしい。
愛のために情熱を貫くトスカ。
公式練習の曲かけでは思い入れたっぷりに仕上がっているように見えたのでとても楽しみ。
この変更とこのプログラムが、メドベの良い後押しとなりますように!
メドベージェワの移籍
https://ameblo.jp/yendtp/entry-12374387681.html
2018AC〜まとめて感想
https://ameblo.jp/yendtp/entry-12407847325.html
2018フランス杯女子FS感想*⁎⁺˳✧༚ *
https://ameblo.jp/yendtp/entry-12421459643.html
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そしてこれは自戒として。
メドベがSNSを手放さざるを得なくなった出来事に対して思っていた事。
誹謗中傷は自分はしていないと胸を張って言うためには、余計な尾ひれをつけないと言う事が大切なのだと思っている。
必要以上に、アスリートの人生に起きた事柄をドラマティックに涙ながらに語る。
それはメディアが試合に無駄に挟んでくる、よく見る煽りVTRとどのくらい違うのだろうか。
私はそこに、いわゆる「感動ポルノ」やマイノリティを憐れむ心理と似たものを感じてしまう。
過剰な愛情表現は、過剰な批判や中傷に通じるという事。
ファンにできる事は、その選手にとっての最良の演技を願い、それを目に出来た時は感嘆の声を上げる事。その努力と功績を称えてそれを見た喜びをそのまま享受すること。
つまり自分の中で、感動を「明日を生きる」というエネルギーに上手く変換する事が、ファンとしてもっとも感謝を表す形だと思っているんだよね。少なくとも私は。
そして選手が沈んでいる時は、沈んでいるままに、見守りつつ応援の声を届けたいと思う。
フィギュアスケートというスポーツはどこまでも「個人」の競技だからか、ファンとして成長を追っていると、確かに他のスポーツと比べ選手をすぐそばに感じるような気持ちになる事が多いのかもしれない。
表の華やかさと、裏での地道すぎる毎日のギャップ。そんな選手の人生を垣間見られる立場にいると、とても甘く幸せな思いがもたらされる事も多いものだよね。
自分の好みの選手を、手放しで応援できる。
“ファン”とはそういう、幸せな立場。
だからこそ、人が人生をかけて向かい合っている苦悩に、善意のつもりだとしても、必要以上に装飾を施す事は、その逆と同じくらい品のない事なのだなと感じる。
ネットでどこまでも情報が伝播してゆく世界で、けなしているのではなく褒めているのだからいいだろう、相手も感謝しているようだからいいだろう、と相手に決断を投げず、果たして自分という1ファンが、SNSという公共の場で踏み込める話題はどこまでなのか。
ファンにもセルフプロデュース力の必要性を感じるのだ。
選手たちは、例えその話題には触れて欲しくないと思ったとしても、声を上げる事が極めて難しい立場の人々だという事を考慮して言葉を紡ぐ事が大事なのではないだろうか。
メドベの移籍から今日までのメディアやSNSの記事を見て、いろいろ感じた事の覚書です。
長々と愚説を読んでいただきありがとうございました。