今日も明日も負けまくります

今日も明日も負けまくります

新しい部屋を借りるお金が貯まるまでの間、知人宅で居候をさせてもらい、うだつの上がらない日々をなんとか楽しくしてやろうとあがいているアホな男の記録です。


大きなあくびをした直後の人の顔って、どうして真顔なんでしょう。



いや、人間に限らず、犬も猫もあくびをしたあとの顔は真顔に見えるのです。



そんな大あくびのあとの真顔で、父は誰にともなく言ったのです。



「おれの家からは海が見える」



と。



細かないきさつはがっつり端折るとして、夏が始まる前にやっと父に会うことができました。



10年ぶりに見る父は抗癌剤の副作用ですっかり痩せ細り、骨と皮だけの枯れ木のような姿に変わり果てていた、



のではなく、逆でした。



父はでっぷり肥えておりました。



正確に言うと、肥えたのではなくパンパンにむくんでいました。ピロ比1.4倍ほどデカくなり、腹水が溜まりに溜まった腹なんぞは今にも中からグロい何かが突き破って出てきそうです。



ただでさえ10年ぶりの再会でうろ覚えだのに、イメチェンが激し過ぎて誰だかよくわかんねえ…



とはいえ酸素吸入器やら点滴の管やらに繋がれたややこしい姿は現実で、ああ、この人はまもなく死ぬんやなと納得して、自分でもビビるほど冷めていました。



だから父が冒頭の言葉を口にしたときも、海なし県に生まれた人間が何をほたえたことぬかしてけつかるねん、んあー、あかん、こらいよいよだわいな、などと暗い想像をしただけです。



けれども父は、大あくびのあととはいえ、真顔だった。僕は人間の真顔というものを信じることにしているので、父が真顔で言った言葉も信じました。



すなわち、海が見える家は実在する。



そう思い始めたらもう止められない。



「海が見える家はどこにある?」



と父にたずねてみても、ポンコツ過ぎて答えなんて返ってこない。



「海が見える家はどこにありますか」



父の財産を管理している代理人にたずねてみても、



「さあ」



と首をかしげるばかり。



父の付き添いをしている謎のおばはんにたずねてみても、



「そんな家、あるわけないでしょう。だってあの人、家を買えるお金なんて、もう持っていないのよ」



と少しがっかりしているような半笑い。



そか、やっぱ、んな家なんてあるわけねっが……しゅん。



なんて、んな簡単にあきらめるピロ式じゃあござんせん。



父の荷物を片っ端から漁ってみると、本に挟まっている1枚のハガキを見つけました。



「網戸の張り替えが終わり、マットレスも届きました。ご都合がつきましたら、いつでもいらしてください」



差出人の住所は静岡県の伊豆となっていた。



伊豆には海がある。海があるということは、海が見える家もあるかもしれない。いや、きっとあるのだろう。なければならぬ。



夏を通り越して10月、僕は熱海駅で新幹線こだまを降りるとレンタカーを借り、ペーパードライバー泣かせの山道を南に進みました。



2時間ほど走ると寂しい漁村に出て、ハガキの差出人のお宅に着きました。



ハガキの差出人は前歯が1本半しかないおっちゃんでした。



「遠くからよく来たね」



おっちゃんが日焼けした顔をしわくちゃにして笑う。半分しかない上の前歯から空気の漏れる音が聞こえる。



笑ってはいけないな、と思う。



「あんたのお父さんが来れたらよかったんだけどね。ずっと楽しみにしてたから」



おっちゃんが半分しかない上の前歯にタバコをねじ込むと、タバコはぴったりと前歯にハマって固定され、おっちゃんは手を使わずにタバコを吸っている。



それでも笑ってはいけないな、と思う。



おっちゃんから家の鍵を受け取り、再び車で山道を登っていくと1軒の古ぼけた平屋がありました。まわりに生えた樹々の枝が建物におおいかぶさって、ほとんど木の葉に埋もれてしまっている。



木の葉と蜘蛛の巣をかき分けて玄関にたどり着き、建て付けの悪い引き戸を開けて中に入ると強烈なホコリとカビのにおいがしました。



部屋中の窓を開け放って歩き回り、最後にキッチンの窓を開けると海が見えました。山と山の斜面がV字型に重なっていて、そのV字の底に海が見えるのです。







ロラン・バルトというイカしたおっちゃんが、私たちが1枚の写真を見るとき、私たちはその1枚の写真を見ているのではなく、その1枚の写真越しに撮影者の「まなざし」を見ているのだと何かに書いていました。



読んだときはさっぱり意味がわからなかったけれど、この写真を見ているとわかるような気がする。



僕はこの写真越しに父のまなざしを見ているんじゃなかろうか。もちろん撮影者は父じゃなくて僕なんだけれど、この写真から見える、というかイメージできるまなざしは、まぎれもなく父のまなざしに思える。



ただ、その父のまなざしは、ずっと見たくて、どうやらもう見られそうにないものにそそがれている。



だから、僕が父の代わりに見ている。さらに、父のまなざしを見つめる僕のまなざしを父が病院のベッドで見ている。



ちょっとややこしいけれど、そういうことにしておきます。



ポンコツおとんはどうにか年を越せそうです。



久しぶりの更新なのに覚えてくれて最後まで読んでくれてありがとうございます。



みなさん良いお年を!



それではまた!