競技ダンス日記
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学生ラテン

それまでモダン・オンリーだった学連競技会、ラテンを取り入れたのは私たちが4年のときでした。


「各校が同じ条件でスタートしよう」ということで、各校の主将カップルを集めて当時のトッププロに講習していただき、それを学校に持ち帰って他の部員に伝える形式でラテンをスタートさせました。 会場は立教大学の地下食堂。 リノリウム張りの床でフロアコンディションはお世辞にも良いとは言い難かったんですが、新しい種目に取り組もうとする参加者の熱気は床の状態などどこかに吹き飛ばしてしまうほどでした。


講師としてお呼びしたのは、ルンバが篠田 学-雅子組(雅子先生はシャル・ウィ・ダンスの審査員として今もご活躍中ですね)、チャチャチャが斎野 友次郎-松村 友希子組。 その年とその前年の日本チャンピオンカップルでした。


服装規定なども決めて、その年の学連○十周年記念フェスティバルでエキジビション的に競技を行いましたが、こちらは学校の成績には反映されない非公式戦。 公式戦としては秋の東都大学戦がラテンを取り入れた初めての競技会だったと思います。 (その1~2週間後に六大学戦でもラテンを取り入れましたが・・・)


当時の写真を見ますと、男子は学生服にエナメルシューズ、女子はワンピースにサテンのハイヒール(-_-;)

年に1回あるかないかのラテン戦のためにラテンシューズやサンダルを調える選手はいなかったんですね。

ベーシック戦事始

今ではノービスや下位級戦の定番になっているベーシック戦(規定フィガー戦)ですが、これを日本で最初に導入したのは東部学連の第21回東都大学戦だと思います。 その裏話を(^^ゞ

 

3年生になる直前の春休み、新連盟委員として東部学連リーダースキャンプ(連盟委員の研修会みたいなものです)に参加しました。 2日目の夕食後、東都加盟校の主だった大学の連盟委員が松山光男理事(日大)と足達文夫理事(中央)に呼集されました。 その席上、「六大学と東都は東部日本として統合され、六大学戦と東都戦は解消して東部日本戦1本に絞ることになっていたが、六大学は止める気配がない。 したがって対抗上、廃止していた東都戦を復活させたい。 ただ、単に復活させるだけでは能が無いので、何か新しい機軸を考えて欲しい。」と説明がありました。 消極的な大学もありましたが、とりあえずその場で実行委員を選出して企画を練ることになり、私もそのメンバーに選ばれました。 その夜遅くまで喧々囂々と『新機軸』のアイディアを出し合いましたが、そのうちの誰かが「英国ではベーシックだけの競技会というのがあるらしい。 日本でもやってみたら面白いのではないか。」と言い出し、賛成多数でベーシック戦を答申することになりました。 理事会に答申すると、その時の協議メンバーがそのまま実行委員に任命され、偶々パートナーがいなかった私(電通大)が実行委員長に、実力者の笹山治一さん(日大)が副委員長に、それぞれ指名されました。 実行委員会メンバーは大井川正美さん(中央)、川上正博さん(東工大)、佐藤良三さん(独協)、伊藤康雅さん(東海)、畠中さん(東京農大)、西川さん(埼玉大)らだったと思います。

 

何がベーシックか?の基準も無い当時ですから、各校で1年生に教えているフィガーを持ち寄って共通しているものを規定フィガーとして選定する作業からはじめましたが、時間はいくらあっても足りず、かなり広かった笹山さんの下宿に泊り込んでの準備作業が続きました。 パートナーの高橋良子さん(現笹山夫人。 国際審判員)が作り置いてくれた朝食のカレーが美味しかったのを覚えています(^o^)

 

なんとか企画がまとまって日競連東部総局に審査員の派遣依頼をしたところで新たな問題が勃発しました。 「学生のベーシックなんかで審査できるか!」「踊りは審査できるが使っているフィガーまではチェックできない」と審査拒否。 「フィガーチェックは私たちで行いますから、先生方は踊りの審査だけしていただけば結構です。」と派遣拒否だけは免れましたが、このままでは新企画は日の目を見ません。 そこで窮余の策として、当時通っていた教室のオーナー永吉彰先生(東京MW主宰)に直訴して賛助文を書いていただきました。 数日後、教授部長の小林鉄雄先生を介して手渡された封筒には「経験の浅い学生が徒にバリエーションに走る傾向をかねがね苦々しく思っていた。 このたびベーシックを見直そうという企画が学生から出されたのを喜ばしく思う。」といった趣旨の挨拶文が入っていました。 (小林先生からは「大先生に直訴するなんて非常識にも程がある」と大目玉をいただきましたが・・・。) 早速この賛助文をプログラムの見開き頁に印刷して準備を整えました。

 

さて、競技会当日の朝、上記賛助文を掲載したプログラムを審査員控室のテーブルに置いて様子を見ておりますと、仏頂面で現れた派遣審査員の先生方、プログラムを見るなり態度一変。

満面の笑みを浮かべて「素晴らしい試みだ!」「このような競技会の審査に呼んでもらえて光栄だ!」・・・・・(ーー;)

 

なお、約束どおりフィガーチェックは学生が行いました。 チェッカーは私、大井川さん、川上さんの3名。 したがって、日本初のベーシック戦の実行委員長であるとともに、日本初のフィガーチェッカーでもあるわけです(^^ゞ

 

※一部、お名前に間違いがありましたのでお詫びして訂正いたします。 2020.12.21 Yemon

自己紹介(?)

競技ダンスをはじめたのは学生の頃・・・

講習会でパーティーダンス(マンボ、ジルバ、ブルースなど)を習ったけど、いざ実戦となると「壁のねずみ」

クリスマスに向けて当時の所属クラブから【ダンス習得要員】としてダンス部(舞踏研究部と称していました)に派遣されました。 「お客さん」のうちはいろいろステップも教えてくれた舞研の方々でしたが、騙しすかされて「入部届」にサインした途端に豹変(ーー;) 女の子と組ませてもらうどころか壁を背に「ホールド」だけ(>_<)  時々上級生が回ってきては肩が上がってくるのを直され、ようやく動けると思えば「ウォーク」と称する妙な歩き方の訓練だけで1日が終わり・・・

(4月に入部した同期の連中に比べ1人だけ1月入部ということで速成訓練だったらしい・・・のは相当後になってわかりました)

訳のわからないままに「新人戦」とかいう試合に出され、ようやく『舞研というのはパーティーダンスではなく競技ダンスをやるところ』と理解できましたが、時 既に遅し。


その後、学連の連盟委員やら連盟幹部(競技会運営担当)で どっぷり競技ダンスにはまってしまいました。 実技の方は全日セミファイまでだったけど・・・


就職で関西配属を機にダンスからは足を洗ったつもりが、偶々遊びに行った神戸で「ダンススタジオ」の看板を見つけて冷やかし半分に入ったのが運の尽き。 なんとなく競技ダンス再開で、当時のアマチャンピオンの岩田さんや後の阪大学長三木先生、現大阪DSF長天道さんらに可愛がっていただき、発足したばかりの「日競連西部アマチュア選手会」の役員の片隅に。 


仕事が忙しくなったことと結婚その他でダンスから離れて○十年。 子育ても一段落して下腹の出っ張りが気になりだし、「何か身体を動かせる趣味を」ということでダンスを再開してしまいました(ーー;)


ダンス歴は

 電気通信大学舞踏研究部OB、東部日本学生舞踏連盟参事

 日競連西部総局 モダンB級、ラテンB級


 現在: JDSF西部ブロックAリーグ部競技課

      DSCJスタンダードA級