2013年も3週間が経とうとしてます。
今年もよろしくおねがいします

12月22日から1月7日まで、7ヶ月ぶりの日本に帰っていました。
はじめての乗り換えにドキドキした出発日。。。
今回はロシアのアエロフロート航空で、モスクワ乗り換えでした。
はじめてのロシアは(空港だけど)、異国の地感が満載で、少々ガラ悪くも感じ、少し怖かった。。ソ連時代の名残からか、一部のターミナルは空港とは思えないほど薄暗く、、
でも荷物をLostすることもなく無事に日本についてのでよかったです。
スイス、チューリッヒからモスクワまでの飛行機では隣にセルビア人のオバさんが座っていて、わたしが日本の文庫本を読んでいると興味を示してきました。年齢をきかれ、22歳だと答えると驚きながら、16歳にしか見えないわ!と言われてしまいました。日本では、高校生くらいから既に20代にみられていたのに、海外では10代にみられる。。ふしぎなもんです。
モスクワから成田までは、となりに年が近い女の子が座りました。はじめてヨーロッパ以外の国にいくってわくわくしてました。ポーランド?あれー。どこの国の子だったかな。。
気軽に話しかけられたり話しかけることができるのって、海外ならではだと思います。日本から海外行きの飛行機ではみんな赤の他人ってかんじだもんな。。。隣に座るのもなにかの運命。小さな出会いが、大きな何かにつながることもあるのかもしれません
今回、久々に書こうとおもったのは、
"死”について。
わたしが日本に一時帰国をすることを決めた2週間後くらいに、わたしの大事な家族の、ピップが死にました。病気になることもなく、3年弱という、長い長い年月を一生懸命その小さい体で生きたピップ。老衰で、苦しむ様子もなかったそうです。
死ぬ一週間前に、もう水も餌もあまりとらなくなったから、そろそろ覚悟してねって母親からメールがきて、一緒に送られてきた、ピップのムービーを見て、泣きました。
ピップは、あたしの東京の一人暮らし生活を支えてくれた子で、はじめて、自分でちゃんと世話をした子でした。ほんとうにやさしくて、かわいい子だった。
日本を離れるときに、もうこれが最後かもしれないって、覚悟はしてたけど、日本に帰るって決めたときに、ああこれでピップにまた会えるんだなって、すごく楽しみにしてた。だけど、ピップにとってのそれまでの1ヶ月はきっと、人間の1年以上だったんだとおもう。
突然あたしがいなくなって、もしかしたらピップは、あたしに捨てられたって思ってたのかもしれない。悲しい思いをしていたのかもしれない。もっともっと、遊んであげればよかった。
そんな後悔が頭の中をぐるぐるしました。
12月28日。
姉夫婦と東京から福島に帰ってきて、3時くらいに、あばあちゃんのいる施設に行きました。
あばあちゃんは御年93歳。6年くらい前から、痴呆症がみられはじめ、同時にパーキンソン病を併発。最初の3年は自宅介護でした。見えないものがみえたり、わけのわからないことをいったり、いろいろなことを忘れていったおばあちゃん。
わたしはおばあちゃんっこでした。二世帯住宅の下の階に住んでいるおばあちゃんのところにしょっちゅういって、ごはんを食べさせてもらったり、遊んでもらったり、お泊りしたり。たくさん心配もかけたし、むかつくこともあった、けど、だいすきなおばあちゃん。
そんなおばあちゃんが、おかしくなっていくのを、わたしは認められませんでした。
思春期だっだというのもあり、わたしはおばあちゃんに冷たくしていました。
なかなかじぶんでは動くこともできなくなったころ、ようやく、特別介護施設に入りました。この頃には、もはや、赤ちゃんに逆もどりしてしまったようだった。だから逆に、優しくすることができるようになりました。おばあちゃんが、おばあちゃんではなくなった、と自分の中で完全にインプットされたのです。まるで赤ちゃんをあやすように話しかけ、ごはんを食べさせる。もう私が誰かは分からない。わたしのおばあちゃんは、もう、この世にいないのと同じでした。
けど、それでもおばあちゃんはたまに、
ゆかちゃんはまだ帰ってこないのかい?
と、私の名前を口にすることがあったそうです。
おばあちゃんの中のゆかちゃんはまだ、小学生くらいだったんだろう。
大きくなったわたしは、あばあちゃんの目の前にいるのに。
パーキンソンで体の自由がきかなくなったり、たまに脱水症状になるくらいで、大きな病気を煩うことはなく、なんだかんだ、まだまだ長生きするだろうって、心の中で思っていました。
きっと、家族みんながそうだったとおもう。
11月頃、胃瘻の手術が行われました。
おばあちゃんがまだ意識がはっきりしているころ、亡き夫(わたしのおじいちゃん)が胃瘻で延命されるのをみて、自分のときはしないでくれ、といったそうです。けど、パーキンソンで、自分の意志でくちを動かしたり飲み込むことができなくなり、痩せたからだが更に痩せていく姿をみて、私の親は胃瘻手術をすることに決めました。だって、おばあちゃんは食べれれさえすれば、いたって健康なんだから。食べられないから、痩せて、脱水症状になり、抵抗力がおちる。だったら、胃瘻させれば少しは楽になるんじゃないか?当然の判断だとおもう。ここで胃瘻しなかったら、あとは餓死するだけなんだから。自分の母親を、そう簡単に死なせたくないのは、当たり前の気持ちだとおもうのです。
しかし胃瘻しても、自分のタンを飲み込むことさえ難しいわけです。
28日、おばあちゃんとちゃんと話しました。
ただいま
もうお正月だね
おばあちゃんのおせち料理食べたいな
あの煮物とか本当に最高だよね
やっぱり福島がいちばんだねえ
っていったら、そうだあって答えてくれました。
ここ数年は会話らしい会話もできず、おばあちゃんが何かを言ってもまったく理解できなかった。
話かけてもまったく反応のないこともしょっちゅうでした。
でもこの日は、ちゃんと目も開いていて、しゃべれて、
ああ
いつものおばあちゃんだな
って安心しました
まだまだ長いかもな
って。
その夜、お風呂につかっていると、姉がバタバタとやってきて、
おばあちゃんの呼吸がとまった
と。幸い髪を濡らしてなかったので、急いで服をきて、
施設に向かいました。
うそでしょ?としかいえなかった。
向かう車の中ではなんともいえない空気が流れ、そんなわたしたちを焦らせたいのか落ち着かせたいのか、信号は次々に赤。せめて事故を起こさないで、と祈りました。
ベッドに寝ていたおばあちゃんは、真っ白だった。
つい数時間前にみたおばあちゃんとは、まったくの別人でした。
けど、まだ暖かかった。
そのとき初めて、本当におばあちゃんがこの世からいなくなってしまったんだと、
死んでしまったんだって、だいすきなおばあちゃんが本当にいなくなっちゃったんだって、信じられなかった。
わたしのなかでおばあちゃんはもう死んでしまったって、思っていたのに、、。
それからの3日間は、業務的に忙しく、
悲しむ暇もなかったようでした。
それにおばあちゃん、すごくきれいなんだもん。まるで寝ているようでした。
寝息が聞こえてくるんじゃないかって思いました。
だから、悲しい、という気持ちは、あまりわき起こらなかった。
まだ、実感できていなかったのかな。
それから出棺、骨を壷にいれるまで。
頭の中は、悲しさよりも、おばあちゃんの思い出でいっぱいいっぱいでした。
幸せな思い出もたくさん思い返すことができた。久々に思い出すこともあった。
けど、死を目の当たりにしたとき、いちばん残った人を苦しめるのは、
後悔
なのではないか、とおもいました。
たくさんの、ごめんね、が頭をよぎりました。
そしていまでも、ごめんねの気持ちが
残っています
だけど、たくさんの綺麗だよって言葉と笑顔とありがとう で、お別れしました。
おばあちゃんは、わたしの一番のおばあちゃんで、一番最後のおばあちゃん。
だから49日、日本に帰って、ちゃんと見送ってあげようとおもいます。
おばあちゃんの死因は、タンでの窒息っだったようです
胃瘻。。。延命。。。
難しいなってほんとうにおもう。
自分で体を動かすことができない=寝返りがうてない
体が痛くてもそれを伝えることができない
朝起きてから寝るまで、天井しかみえない、
なんの代わり映えもない毎日。
にんげんの三大欲求の一つである、食べるという楽しみさえない。
だから、楽になって良かったんじゃないのかなっていう言葉をきいて、
初めて、
あ、本当だ。そうかもしれない
っておもいました。
おばあちゃんがどんな気持ちで毎日を過ごしていたかなんて、正直あまり考えたことがなかった、。
延命=エゴ??
このへんは、すごく難しい問題です
わたしは今回、その当事者ではなかった。
けど、自分の親がおなじような状況になったら?
どうする?
自分の選択で、じぶんの大事な人の
生か死か が決まってしまう
できれば遭遇したくない、選択です。。。
最後に
大事な人と最後に交わす言葉を、
大切にしたいです。
すきなひとには好きだとつたえる
ありがとうってつたえる
けんかしたままでいない
相手の状況把握をおこたらない。。。
だって、最後に交わした言葉が、本当の最後の言葉になってしまうこともあるんだから。
後悔するようなことはいいたくない
もうこれ以上、後悔するようなこともしたくないよ。