小墾田皇女も子供がいなかった可能性が高いとは思っています。少なくとも男の子は生んでいないと思っています。
理由の1つは、田村皇子が皇位についているからです。
田村皇子は押坂彦人皇子と糠手姫皇女の間の息子です。
糠手姫皇女は敏達と伊勢大鹿首小熊の娘の子、
小墾田皇女は敏達と推古天皇の子、
と考えると、小墾田皇女のほうが、糠手姫皇女より格が上であったため、彦人皇子の正妃は小墾田だったと推測できます。もし小墾田皇女に息子がいたら、彼女の息子が皇位についていたでしょう。いなかったから、糠手姫皇女の息子、田村皇子が天皇になれた。
もう一つの理由は、小墾田皇女の同母妹、桜井弓張皇女が彦人皇子に嫁いでいることです。桜井弓張皇女は『上宮記』にある由波利王と同一人物と考えられており、もともと久米王と婚姻関係にあったと考えられています。久米王は603年に亡くなっています。おそらく、そのころには小墾田皇女も亡くなっていたため、小墾田皇女の代わりとして桜井弓張皇女が彦人皇子と再婚することになったのではないかと、、、。
小墾田皇女が生きていたら、桜井弓張皇女は夫の死後、彦人皇子とは再婚しなかったと思うんです。年齢が離れ過ぎているからです。彦人皇子の息子の田村に近い年齢だったと思われます。桜井弓張皇女の姉、田眼皇女が田村皇子より8歳年上ですからね。それでも田村皇子ではなく、父の彦人皇子に嫁いだのは、やはり小墾田皇女の代わりというように考えたほうが納得がいきます。