万葉集には鏡女王と中大兄皇子のやり取りした恋歌があり、二人には婚姻もしくは恋愛関係にあったと推察できます。

 

91 妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを(天智天皇)

92 秋山の木の下隠り行く水の我こそ益さめ思ほすよりは(鏡女王)

 

鏡女王が舒明天皇の娘、もしくは孫としたら、身分から言って、中大兄皇子の正妃だった可能性は高いです。しかし、日本書紀にはそんな記録は一切残っていません。中大兄皇子の正妃は古人大兄皇子の娘、倭姫王とあります。

 

では なぜ鏡女王は日本書紀の天智紀に妻として名がないのか?

 

①子供をなさないまま、離婚したから

②そもそも結婚していないから

③鏡女王と中大兄皇子の婚姻を記したくなかったから

 

先ほどの万葉集91、92の歌が取り交わされた時期については学者たちの間で議論になっていてまだ決着はついていませんが、

 

1)難波に都があったとき

2)朝倉宮遷都の時

3)近江に都があったとき

 

の3つが有力かなと思います。気になるのは、正妃であれば、1)~3)のいずれの時も夫に付き添って一緒にいくはずだということです。しかし、91、92の歌は離れ離れで恋しい気持ちが読まれているので、一緒に行っていないのです。ということは、鏡女王は大和にとどまっていたということになります。都が遷っても、鏡女王は移動しなくていい、もしくは移動できなかったということになります。

 

私はこの歌が詠まれたのは3)の時ではないかと思っています。それは、91の歌の題詞

 

近江大津宮御宇天皇代 [天命開別天皇 謚曰天智天皇] / 天皇賜鏡王女御歌一首

 

を素直に読んだからです。題詞に「近江大津宮時代に読んだ」とあります。

なぜ近江に移動できなかったのかですが、もしかしたら高齢で介護が必要な人が身内にいたからかな?と思いました。鏡女王も40代なのではないかと考えたとき、その親もしくは祖母が高齢で動けない可能性もゼロではないかな、と。で、近江に行けないので皇后になれないから皇后にならなかったという可能性もあるのではないかと。

 

だから先ほどの①が一番答えに近いのではないかと思っています。離婚はしていないにしても、婚姻関係が続いているとも言い難い状況にあったのではないかなと思います。