推古天皇には7人のこどもがいます。

推古天皇は誕生が554年なので、13歳で敏達天皇に嫁いだとして、敏達が崩御する585年まで18年の間に7人産んでいるということは、結婚生活ほぼ妊娠中!という感じだったと思います。古き時代は産んでなんぼ!みたいなところがあるので、普通だったようですが、現代人の私からするとすごいな~と感心します。

 

子女は以下の通りです。

①菟道貝蛸皇女:聖徳太子の正妃。日本書紀に子女の記載なし
②竹田皇子:推古天皇より先に亡くなっている。
③小墾田皇女:押阪彦人皇子正妃。日本書紀に子女の記載なし。
④鸕鶿守皇女:
⑤尾張皇子:子供の橘大郎女が聖徳太子妃。
⑥田眼皇女:舒明妃。日本書紀に子女の記載なし。
⑦桜井弓張皇女:久米皇子妃(3人産む?)。彦人大兄皇子妃(山代王、笠縫王母)

 

最も気になるのは、多産系推古天皇の子孫が非常に少ないということです。日本書紀では、①③④⑥の皇女の子女はいないことになっています。

 

みんな石女(うまずめ)?

ありえないでしょ!

 

日本書紀は子供があると妻の名を記載し、子供がないと記載しない傾向はあるようですが、子供があっても記載しない例がないとは断定できません。実際、後世の別の資料で子女が確認できることは多々あります。

 

①菟道貝蛸皇女は早死にしているような気はします。理由は、尾張皇子の娘の橘大郎女が聖徳太子に後妻として入っているからです。推古と聖徳太子を結び付ける方法として政略結婚を使っているので、菟道貝蛸皇女が亡くなったから他の女子を嫁がせたということなのだと思います。では何歳くらいまで生きたか、ですが、恐らく推古の5人の娘がすべて嫁ぎ終わってからなくなったのだと思います。(③④⑥⑦の皇女が嫁いでなかったらこれらの皇女の誰かを聖徳太子の後妻に入れていたと思うので)様々なことを考慮に入れると、605年ころまでは少なくとも生存していたように思います。

 

菟道貝蛸皇女には、成人男子の子供はいなかったのではないかと推測します。それは641年に舒明天皇が亡くなったとき、後継者争いに山背大兄皇子と古人大兄皇子の名前が挙がっているからです。もし菟道貝蛸皇女に成人男子の子供がいたら山背大兄皇子より身分が上なので、名前が挙がっていたはずです。上がっていないということは少なくとも成人男子の子供はいなかったと推察されます。