以前から疑問に思っていたことがあります。
孝徳天皇はなぜ皇位につけたのか、ということです。
孝徳天皇は皇極天皇の弟ですが、孝徳天皇の父親は茅渟王(押坂彦人皇子の子)、母は吉備姫王(桜井皇子の女)なので、皇子ではありませんし、親も皇子皇女ではありません。
皇極天皇は舒明天皇の妃なので皇位に就くことは可能だと思いますが、いくら実の弟だからと言って、孝徳天皇は皇位を継承できる血筋にはないように思われます。孝徳天皇の妻をみても、あまり有力な士族の妻はいません(間人皇后は皇位についてから妃になった)。孝徳天皇はよほどのウルトラCでも使わない限り皇位には就けないわけです。
ウルトラCは643年の「聖徳太子一族滅亡」、645年の「乙巳の変」なのではないでしょうか。
「聖徳太子一族滅亡」により、上宮王家は滅びました。
「乙巳の変」で蘇我本宗家は滅びました。
これらは孝徳天皇を誕生させるために行われた可能性はないでしょうか。これら二つの変により、山背大兄王と古人大兄皇子という2人の皇位継承候補者を結果的に排除しています。
もし「孝徳天皇を皇位につける」という結果ありきで話を進めたのなら、「古人皇子、中大兄皇子がいてはなれない」→「中大兄は自分の息子だから辞退するよう言えばいい」「蝦夷・入鹿がいれば古人皇子を天皇にすると確実に言う」→「蘇我蝦夷入鹿を排除すれば古人は皇位につけない。就くと言ったら殺せばいい」という論理が成り立ちます。
皇極天皇は初めて譲位をした天皇です。天皇は基本死ぬまで天皇で、退位はしないのが一般的です。当時は皇太子というものは存在せず、天皇が亡くなってから群臣で協議して次の天皇が決められたようです。皇極は、譲位という形をとり、自分が指名して孝徳天皇を誕生させてしまおう、と思ったのではないでしょうか。
これはのちに持統天皇がとった方法にとても似ています。持統天皇は孫の軽皇子に皇位を譲りたかった。でも天武天皇にはたくさん息子がいて、簡単にはいかなかった。特に高市皇子は実績・経験があり、高市皇子がいるのになぜ軽皇子に皇位を譲るのか、と言われること必定だった。だから高市皇子は殺され、待ってました!とばかりに半年後、軽皇子は即位します(文武天皇)。持統天皇は「譲位」して軽皇子に皇位を譲っています。高市殺害は軽皇子に皇位を譲るための準備だったわけです。
以前「善光寺縁起絵巻と皇極天皇」というブログを書きましたが、皇極天皇が地獄に送られたとされる理由がここからもわかる気がしてしまいます。
余談ですが、偶然にも、孝徳天皇も文武天皇も皇子名を「軽皇子」と言います。単なる偶然??