「ならば、理は捨てたほうが良いのでしょうか。」

 

「理は天地の自然であるので、どうやって捨てるというのでしょうか。物事を判断するとき、理がなければできません。例えば器を作るのに定規を使ってやれば僅かな違いも生じないようなものです。だから物事を判断するときは理を使いなさい。身を修め家を斎え、国を治めるには、道をもって行いなさい。」

 

「理をもって判断すると、道をもって判断するのとではどのような違いが出るのでしょうか。」

 

「天下の政治を理で判断すれば一善を表わし、また一悪を表すことになります。小さい善を称賛して、小悪を必ず罰しなさい。一善があったとき小さい善であっても称賛しなさい。一悪があったとき小さい悪を罰するのはやってはいけない。なぜなららば、人それぞれ小さい悪はあるものです。これを全て罰していたら人は生きていけません。これは刀を使って斬るようなもので、冷たく愛がありません。水が清いことはいいことではありますが、清すぎると魚は生きていけません。人は素直なのが一番良いと言いますが、素直すぎると有人はできません。これは理を重視して非を咎めて厳しすぎるからです。だから、孔子は父は子のために隠し、直はそのなかにある[1]とおっしゃっています。」

 


[1] 原文は「葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣」現代訳は「葉公が孔子に語って言った。「わが党に直躬という、まっすぐな行いをする者があります。その父が羊を盗んだ時、子はこれを訴え証言したのです。子として最も親愛する父のことさえ正直に訴えるのですから、これはもう正直さの極地ではありませんか。先生がおっしゃった。わが党のまっすぐな者は、それとは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。父が子を愛し子が父を慈しむ自然の道理に沿っています。まっすぐなことは、その中にあるのです。」

 

いやいや、窃盗は駄目でしょう。親は子供の不始末を何とか穏便にしてやりたいと思うものですが、この位の犯罪となればそこの将来のために、突き出すべきです。

 

が、共産主義の時代はどこの国でも密告が多かったようで、それも奨励されていました。東ドイツは誰がどの案件で誰を密告したかの文書がかなり残っていたのでその制裁が凄かったようです。一方、ルーマニア、ブルガリア、ポーランドではこっそり廃棄されていたようで、仕返しはあまりなかったようです。

 

中国では最近この手の密告を奨励してますから、現地駐在員はかなり危険ですよ。