ある宗派の開祖が書いた本には、人間は先に臨終のことを先に習って、その他のことは次に学ぶべきだと書いてある。世間の技を習っても役に立たないことはあるが、臨終のことを習って役に立たないという人はいるだろうか。

 

さて、臨終を習うという人は、善果に至るように普段から努力することである。例えば、傾いている木を切って、傾いた方に倒すようなものである。日ごろから善を行っていれば、臨終のときは善に傾くものだ。

 

また、私の門弟は昼間時間を惜しみ、夜は眠るのを惜しんで仏道を願っているようだ。一生を無駄に過ごすようなことはあってはならないとも書いてある。大バカ者は電光朝露[1]の一瞬のために、苦の種を植えるのは浅ましいことだ。

 

さらに、喩え百歳まで生きたとしても生滅の理を分からず、仏道にも入らず、仁義にも背く人は、一日生きて理を知った人にずっと劣るのだ。

 


[1] 雷の光や朝露のようにはかないもののたとえ

 

人の死、自分の死について若いうちに考えるというのはいいことだと思います。若いときはそういう感覚はなかなか難しいものがあります。恵比寿屋さんの場合は、高校の時の同級生で脳腫瘍で死んだのがいました。それでも彼は病気で死んだという感覚で、余り死を意識しませんでした。

 

大学生になって中学校の時の同級生が交通事故で死んだと聞きました。それでも、しばらく会ってないなぁぐらいの延長でしかありませんでした。

 

それがある程度の年齢になると、祖父母、叔父叔母の死去でだんだん意識するようになり、仕事仲間が死ぬようになるとさすがに意識せざるを得ませんでした。

 

その間にも、阪神淡路震災に巻き込まれそうになり、911テロ、ロンドン爆破テロ、東日本大震災でも寸前のところで回避してきた経験からすると実感がわきませんでした。大抵の人はこうやって、ある日突然直面するんでしょうね。