悪事や災難は自分の考えから出てきて自分の家にやってくる。大般若経を祈祷するときに読むのは無我心[1]の体である。中臣の祓をするときは、六根に曲がったものを祓って、正直堅固であれば悪魔もやってこない。

 

伝教大師[2]は王城[3]の鬼門に当たるので比叡山の延暦寺を建てたのは、比叡山の天台止観円融の方法によってなされた。止観円融は無我の境地を言う。唯一実相[4]であり深くて細かい話になるが、この無我というのは我慢がないという状態である。道のない金銀宝に目を向けないということだ。その状態で神を頼み慈悲深く目上を敬い、目下の者を憐れむ家には悪事災難は来ない。鬼門も祟りを為すことはない。こういうことで王城の鬼門を守る理屈である。仇も怒りも自分からの邪険な剣が原因で損なうのだ。

ある僧侶が雨の降る夜にあまりに暗いので、蛙を足で踏んでしまった。不憫なことをしてしまったと自室に帰り、寝ているところ数千匹の蛙がやってきて言った。

 

「命を奪うことは仏が誡めていることである。ではあるが、思わず殺してしまったことについては、大俗[5]の身を憐れんで一度は回向[6]するものだ。ましてや出家の身でありながら我が一族を殺して念仏の一つもなく放置している。この怨みを言いに来たぞ。」

 

と頭に飛びつき背中に入り込み、責め続けた。その苦しさに耐えられなく、お詫びをした。如是畜生発菩提心[7]と回向を行った。ああ恐ろしいことだ私の不注意から殺してしまったと悔んだ。夜が明けるのを待って、昨日の場所に行き弔ってやろうとよくよく見ればなすびであった。

 

このように心に過ちがあれば、心が身を責める。この通り考え正直にして恵んでいれば災難はやってこない。

 


[1] 私心なく執着を離れた無心な心の状態。

[2] 最澄(天平神護2年〈766年〉もしくは神護景雲元年〈767年〉―弘仁13年〈822年〉)は、平安時代初期の仏教僧、天台宗の開祖である。

[3] 皇居

[4] 一切のもののありのままの真実のすがた。

[5] 出家していない一般人。

[6] お経などをあげることで積んだ「徳」を故人に回し(与え)、故人が浄土へ行けるようにすると同時に、お経を唱えた人にも浄土への道を開くという意味。

[7] 「オン ボウジ シッタ ボダハダヤミ」「仏教のことばで、悟りを開こうとする気持ちをもって、仏門に入ろうと決意すること。」を意味する真言。

 

通常の人は犯罪を犯すとこういう反応になります。ですが、繰り返すことでむしろ達成感が出て来るらしいですね。

 

殺人犯の書いたとされる本を読んだことがありますが、2人目のときは罪悪感が全く出なかったとか。おそらく粉飾決算もそんな感じなのかもしれません。だからやらかした時は、1回目が勝負ですよ。子どもの教育でも。