『徒然草』に「家柄や容貌は生れつきでどうにもならないだろうが、人間の知性は努力によっていくらでも賢明になっていくものだ。[1]」とある。生まれつきの容貌ですら手入れすることで見違えるほどになるのであるから、ましてや心については邪なことも正直になりそうなものだ。

 

さて、和光の影と心の神が一体という意味は、昔大己貴命(おおなむちのみこと)が大和の国の姫と結婚した。通い婚であったため別れを惜しみ、裳裾に針をつけて三諸山の杉の影にその糸が三輪残ったことから、三輪の山と呼ぶようになった。神代の話である。大和とは大いに和らぐという意味である。

 

三諸山というのは身諸山という。夫婦の事、諸白髪諸鐙諸手などの類で二つのことを言う。その夫婦の身が、諸山陰陽が和合して人の種を孕み、陰の形であるのを月輪といい、陽の姿を日輪とする。天地の気とするものを風輪という。これを水金風の三輪を日本では三輪という。胎内にあるうちから陰陽心のその糸三輪が合体したのが、生まれて出てくるのが人間である。混元日月風の三輪ということを考えれば、伊勢と三輪の神、一体分神の事であると謳われている。

 

ということは、八百万の神も人の体の中にとどまっており、善悪を考え判断するというのはどうして絵空事と言えるだろうか。

 

人は生まれて少年のうちは東に当たる。東は日がでるところ、人は日の徒である。少年は人の基本、東も日の基本。日の本は正直の道を諭して、性善である身がそのまま邪にならないように、神道では最初に正直を教える。

 


[1]原文は、「 品、かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか賢きより賢きにも、移らざらむ。」

 

おそらく陰陽五行説が混じっているようですが、三つ巴の概念が入っていたり・・・で、神学論争になるので、もはやこの辺りは私もわかりません。