百姓で兄弟と土地を争って、何事でも裁判に持ち込むのは無分別というものだ。兄弟は同じ親から生まれているのであるから、欲迷って争うのは人として恥ずかしいことである。第一に先祖に対して不孝であり、利益のないことと思い、こういった迷いを弁えて兄弟親類と裁判事や口論をしないようにしなさい。喩え他人と裁判事になっても、元来天地を父母とする道理から見れば、同胞の兄弟である。

 

その上、少しの利益を以て庄屋や町年寄に苦労を掛け、人にも悪く思われて、金ばかり出ていくことであるので、普段から問題があれば諭しあって、心得違いがないようにしたいものだ。

 

ー--------------------------

 

まず、ここでは裁判と書きましたが、本文では公事(くじ)とあります。今のような裁判制度ではなく、ろくな法律はなく奉行所から出される政令のようなものがそのまま法律のような扱いでした。実際には、庄屋(町年寄・村役人)がもめ事を「うったえのないようが倫理的であるかどうか」で判断していたようです。しかも、どうしろと命令するのではなく限りなく調停に近かったようではありますが。

 

高取帳面や明治初期の村に関する記録を見ると、1家族6人前後、大体800人前後が多かったようで、庄屋はその代表みたいな位置づけだったようです。飢饉のたびに多少遠方から人を入れたりで、若干の入れ替えはありましたが、それでもその集落は5代ほど前に遡ればみんな同じ血筋みたいなこともありました。だから家族同然に扱えというのも分からないでもないです。

 

本題に入ります。問題を起こす人って、自分が正常で公平で判断をしているのに周りが因縁をつけて来るとルサンチマン的発想なんですよね。だから、お前がやっていることはおかしいよと諭しても、なかなか理解できません。あまり酷いようになると村からの追い出しになったようでもあります。