始まりがないということはない。よく終わりのある者は少ないと聖人は仰る。人々はそのことの始まりは華々しくても、多くはそれを遂げずに終わりが良い物はない。人の貧富の差も同じである。例えばある人が幼い頃から貧しい生活をしていたとする。老人になって急に富が増える、いわゆる死に光をやれば人は皆、あの人は巡り合わせがいい人だなと羨む。幼い頃からの苦労を言わず、元は金持ちだが年老いてから貧しくなる。困窮して死ねばこれを貧乏人と卑しめる。この貧乏人は、生まれてからいままで豪奢な生活をしてきて、ただ死ぬ寸前の六十日だけが貧乏であったが一生貧乏であったかのようである。先の老人は生まれてからずっと貧乏で一生いい思いはなかったが、死ぬ前の六十日間は金を持つようになって命を全うすれば金持ちの扱いになる。

 

人は死に際一段が吟味される。

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「終わり良ければ総て良し」そうは言いましても、やはり途中経過も華々しく生きたいものです。そうはいかないのがこの世の定め。

 

死に際60日というのは見たことはないですが、親が作った借金のせいで稼ぐ金は皆税金と利子ですっ飛んでいき、しかも土地は下がるばかりの状態で今となってはただのサラリーマン以下になってしまった大金持ちはいます。

 

多分、彼の家は貧乏に勢いがついていないので、また元に戻るでしょうけど。

 

で、やってはいけないことは人を羨むことです。羨んだところで自分は金持ちになれません。むしろどうやったら金持ちになれるのか、その思考を学ばせてもらう方がよほど生産的です。だから、収奪する側と収奪される側に分けて考えがちの人や国は、未来永劫まともな生活はできないでしょうね。旧共産圏はこのせいで経済が上手くいかないのだと思います。