利があれば別に大声を出さなくても聞いてもらえるのに、ちょっとしたことであっても大声で騒ぎ立てる人がいる。自分には智恵があって利益があるならば、小声で言えば済むような話なのに、キーキー声を出して喚くのは、本当に智恵のないものがすることだ。大声であれば少々無理なことも大げさに罵って帰っていく人がいる。そういうので、ざまあみろと思う人はとんでもない誤りだ。

 

相手が賢くてその無理を大声で喚くのを早合点して、この人は悪者で無理を言って言いくるめようと大声を出していると、心の底で思って堪忍していたほうがよい。それを自分の方が賢いと、そういうことを手柄話にする人がいる。こういうのは商売には大いに害になる。そのことを聞く人ごとに、その人は無理を言って大声で言いくるめようとしているんだと理解して、商売しないほうがよい。それ以前に近づかないほうがよい。たとえ利がありそうだと言っても、法というものがあって、義についても強く言わない方がよい。こういうのも商売に害になる。余り義を立てすぎてかえって礼儀が伴わなくなるので、昔の人は「水清ければ魚住まず」と言って、潔白すぎると人は付き合いにくいと思うようになる。少しは世間の風習に合わせなければならない。義だからと言って、声高に人を責め立てて、相手が何も言えないようにしてしまうのも、これも礼儀知らずである。

 

物事には程度というものがあって、その場に応じて人と付き合い、実際に義をもって礼儀を乱さず世間の風習を乱さず、柔和であることに注意して正直に商売すれば、天の道に叶って何年も商売は繁昌するだろう。

 

安永三年[1]甲午九月吉日

 

京都書林 御幸町仏光寺上がる

藤屋武兵衛梓

 


[1] 西暦1774年

 

「そんなことも知らないの?!」を言いたがる人、マウンティングを取りたがる人。嫌ですね。昔はカチンときて論破してきましたが、だんだんっ面倒臭くなってどれだけ喋るのかなぁと観察するようにしています。だいたい不快感を催させる人は、論破しなくても勝手に自滅するんだということに気づき生暖かく見守るようにしています。

 

外国人とは、そういう状況にはなかなかうまくいかないものです。長期的に付き合うつもりならば、生温かく見守った上で、たまに証拠を出して見せて、「慎重に物を言えよ」と暗に示してやりますが、短期的な付き合いだったらこういう事を言い出すとさっさと離れるようにしています。

 

義を声高に言う人、よく観察してみると実際の所義なんかどうでもいいと思っている節が見えることがあります。建前を前面に押し出す余り、本音が言えなくなって「正義」を振り回す、そんな感じがありませんか?いつ本音が出るかなーと思って、距離を置いて観察していると面白いですよ。

 

特に女性に忠告です。とことん追いつめたらだめですよ。勢いあまって、正面衝突でぶった切っちゃう人がいますが、あくまでも生暖かく見守ってやってください。その方が後で喧嘩を売られなくなりますから。

 

同僚にガチ左翼の元活動家のおばちゃんがいまして、やたらと正義を振りかざしていましたが、これでやり過ごしていました。だんだん自分の言動に矛盾があることを認め始めたのには驚きました。