金があるからと言って貧しくなることもある。貧富はあざなえる縄のようなものだという言葉があり、金銀は飛鳥川の渕瀬[1]と変わる例えである。今日があるからと言って、必ずしも明日が同じように来るとは限らないと思って驕るようなことはしてはならない。金持ちの家であって、子どもが生まれれば金が要るものだ。また、病気で予想外な出費もある。また、思いもよらない困ったことが起きて出費が多くなって貧乏になることもある。少々現金がある家でも川づかえ[2]があって、現金が送られてこないこともある。親が長年病気を患い、死んでからの出費で現金が減ることもある。自分が病気になって予想外に外には見えない出費が出る家もある。そういう非常事態で苦しくなることがある。

 

こういう現金が減るきっかけは様々あるが、足りなくなるのは現金であることであるから、そこに注意すべきことである。だが、先に書いた五つの困難から、貧窮することが多い。誰しも少しは考えてはいるが足らなくなるときは、その準備が間に合わなくなることはある。これはつまり、足らないようになって難しいことだ。誰もが色々と対策を考えるが、時期によっては金を稼げない時期があり、簡単に出て行ってしまう。とかく、増やすのが難しいのは、金銀であると思える。九年間の生活費を用意できない場合は貧乏であると考えなさいと孔子は仰っている。九年が妥当かどうかは差し置いて、貧乏な家では明日の生活にも困る家もある。人それぞれである。だから家の大小に関わらず先の五つの原因で、急に現金が必要な時の質草になるようなものを用意しておくか、また為替が決済されるのを待つか、来月の期限やなんやとやっているうちに期限日にはこういう事になってしまう。確実に金銀がある状態にするには、まずは質になるものを用意して金を回すのがよい。

 

金を借り角は外聞も良くなく、判形[3]やら証人やらと世間に伝わって商売に悪影響が出てくるので、衣装なり道具なりを置いておくのがよい。

 

また金銀が無くなって行くところがなく、見た目には何もないようではあるが、十三か月以内には受け戻ししようと思って質に置くのは、とんでもないことだ。誰もが惜しく思って質にしておくが、多くは余り金にはならないので、その場合はい売ってしまったほうがよい。売るときは、質で一貫しか借りられないのであれば、一貫五百文で売ってしまったほうがよい。百匁の質にしからならないのであれば、百五十匁で売ってしまいなさい。百五十匁の金を作りたいと思って質に入れても、実際にはできないものだ。

 

そもそも金がないから借りるのであるから、その暮らし方の上で借りたものに利子をつけなければ、売ってしまう方が一番良い。よく工夫しなさい。

 


[1] 奈良平野の南部を流れる飛鳥川は氾濫することが多いことから、世の中の変化が激しいことを意味する。

[2] 川の増水で渡れなくなること。

[3] 花押・サインのこと。

 

日本では平安時代(一説では奈良時代)から大正・昭和初期まで、頼母子講がありました。本来は、お寺や神社にお参りに行くための積立金制度だったんのですが、積立途中で病気などで行けなくなる人がでると、その人にお金を貸すというマイクロファイナンスのような組織が一般的でした。今の信用金庫の原型です。

 

下級武士や農民と言った夜逃げができない人が対象だったので、この話に出てくるような比較的大きな、おそらく奉公人が10人以上いるような店では、なかなか難しかったようです。この当時も、手形・小切手に相当するものがあり、決して日本は後進国ではなく、むしろ社会制度としては世界でも最先端でした。こういうのは決済されるのは時間がかかるんですよね。

 

クレジットカード決済を導入した途端、現金が回らなくなり大変なことになったという個人経営の店の話を聞くことがあります。いわゆるキャッシュフローの概念ですが、このときにもう少しどのような状態になると危険になるのか研究していたら、日本はもっと違った国になったかもしれません。

 

で、質草となる動産の話が出ていましたが、いまは不動産がメインです。流石に、ブランド物のバッグといっても一度封を切ったら半額以下でしか評価されませんし、一度でも使ったら3割程度も評価されません。車も同様です。ただ車の場合は減価償却と市場価値の間には乖離があるので、それを利用する場合もあり得ますけど、経済状況でそれもすっ飛びますから。