去年水戸藩領の吉沼村[1]に住む貞女、さよについてが出版された。この場合も賢者がいて教えたわけではない。性格がよかったからであるが、とは言え国の政治が非常に良かったからである。尭舜の政治の道が世の中で行われ、しばらく慣習法として世界各国に伝わり五倫の道として知らしめた。どんな田舎でも、説教するものがいれば又聴く人もいた。心に響く人もいて、実際に行う人もいた。こうやって、説教がその国の雰囲気となり、そのうちそれを真面目に行うものが出てきて、節義の行いをするようになる。淫らで乱交な雰囲気のある地方では、教えが届いていないということを論じるまでもない。

 

最近、奥州の会津に伝えに行った。ここでは男女七歳にして同居せず、食事は男の子は父親の傍により、女の子は母親の傍に座り、講談や見物に行くにしても、必ず手が届かない範囲で男女を分けて座らせ、道を歩くにしても男は左を女は右を歩く。このようにしているので、淫乱なことをするような人は希であると言われている。この法はあらゆるところで実行すれば、百姓は大いに迷惑するだろう。では、会津の住民はその法を守るのは何故だろうか。

 

それは税金を少なくし、労役を少なくしたので、民は大いに喜んだ。君主自ら行い、臣下も行い、こうして民も喜んで君主に従った。だから自ら直さずに、民を直そうとするのは木に登って魚を取ろうとするのと同じくらい難しい。

 

また会津では鰥寡孤独[2]な者や支離[3]がいれば、あるいは長い病気で仕事ができない者がいたら養っていた。その子供に命令して言うには、

 

「すでに殿さまから扶持を下されているので、お前は家来である。お前にとっては父である。周りの者たちを大切にしなさい。」

 

これは、「礼記」には「飢えたものを見たら、まずは何も言わずに食わせなさい。凍えているものを見たら、まずは何も言わずに服を与えなさい。」とある。これが仁の道である。これを実行したので、不孝不義の者は少ないのである。又百姓が馬を失ったときは、その代りを貸していただけた。こういった仁政であったので、男女の礼法も整うのであろう。

 

伝え聞く範囲では、加賀[4]や薩摩[5]でも鰥寡孤独や困窮者を救済しているので、乞食は存在しないらしい。遠い国の話であるので、その詳細は知らないが、これ以外にも仁政はありそうだ。ときおり噂が伝え、後の世迄この世の平和を模範としなさい。

 

と愚かな民が享保二十年[6]卯年にしるす。

 

天明改元[7]辛丑年十一月

 

京師寺町松原下町[8] 梅村三郎兵衛

同町       勝村治右衛門

 


[1] 現在の水戸市吉沼町

[2] 「鰥」は老いて妻のない夫。「寡」は老いて夫のない妻。「孤」はみなしご、「独」は子のない老人。

[3] 一家離散した者。

[4] 現在の石川県

[5] 現在の鹿児島県

[6] 西暦1735年

[7] 西暦1782年

[8] 現在の京都市下京区松原?

 

社会保障制度がなかった時代では、まさにこういうのは全て自己責任として扱われていたようです。とは言え、考古学では縄文の頃から脳性麻痺の人が30歳まで生きていたことが発掘により分かっていますし、有史以前から助け合いはかなりあったようです。

 

むしろ、制度化されて誰かのお陰で救われたという、その「顔」が見えなくなってしまったことが、文句たれを増やしてしまっているのではないかと思います。日本は世界に関たる社会保障が進んだ国なんですがね。