とはいっても、さつも金属や石ではないので、年を経るにつて体も弱って昔のようには働けなくなった。日雇いの賃金も低くなっていき、主人二人の衣食には厳しくなってきたのを嘆いていた。今では落ち穂を拾い、継ぎはぎだらけの服を着て、苦労は大変なものであった。それでも主人には粗末な食事をさせなかった。

 

代官の久田見武兵衛はその様子を見て、時折銭を与えて、励ましていた。年寄りたちやそのほかの気の毒に思った百姓は、少しずつ金を出して助けてやった。

 

あるとき、久田見氏が木綿の布を褒美に与えたが、翌日も継ぎはぎの服を着てお礼に来た。そこで代官は

「昨日やった布は着ないのか。」と質問した。

 

「それは旦那様に差し上げました。私は旦那様のお古を頂いて着ております。」

 

と答えると皆は涙を流した。

 

この事が地頭の井伊掃部頭[1]に伝わり、前代未聞の忠節であるとしてお呼び出しになった。お墨付きで当座のご褒美として米銭を下された。さつと主人、老母に、それぞれ生活費を下された。その上二人を町中で預かる間、丁寧にもてなしなさい。もし病気その他問題が起きたら、代官に調べさせて連絡するようにと申しつけられた。

 

こうして町中から新しく家を建てさせ、ますます面倒を見るようになった。

 

このとき、享保十二年[2]未年、主人である老母七十一才、さつは六十二才、卯年[3]になるまでの九年間生活した。

 


[1] 掃部頭(いいかもんのかみ)は、掃部の長官。

[2] 西暦27年

[3] 西暦1735年

 

井伊掃部頭で探すと井伊直弼が出てきますが、明らかに時代が違うので別人でしょう。

 

この当時は公助はなく、村単位で相互扶助でしたが、この話の中では頼母子講から金を借りるどころか、どうやら貸していた雰囲気があります。この人を主人に据えていれば、もっと変わっていたかもしれません。という発想は、今だからかなんですかね。

 

記録によると、明治の最初の頃には今と同様に女性の会社経営者が出てきます。この当時もやれたのではないかなという気がします。