『孟子』には、「最高の孝行とは、自分が死ぬまで父母を慕うことである。[1]」とある。杉浦氏も同じ行いと言えよう。十年ほど前、同町の塩瀬清兵衛という人と知り合いになった。これは世の中で知れ渡っている、まんじゅう処の山城の人である。この夫婦も素直な人で、この杉浦氏と入魂の中で、その付き合いで杉浦氏と仲良くなった。

 

塩瀬夫婦が言うには、今年の春に杉浦氏の母は八十になったそうだ。明日その母が、「上野の花は今が見ごろだろうねぇ。私は三郎兵衛という孝行息子がいるので、去年までは輿にのって花見に行ったが、今年は体力がなくて籠にも乗れないだろうねぇ。たれこめて春の行方もしらぬまに[2]・・・」と古い歌を歌ったところ、三郎兵衛は自分は何と不孝であろうか、今まで花見に連れて行かなかったことをお許しくださいとばかり、上野を取り寄せてお目に入れようとそのまま花屋に走って行った。そして、桜の花を大量に買ってきて二階までいっぱいに並べて、近所の気の合うおばちゃんたちを五六人集めて丸一日おしゃべりさせて、糸竹[3]踊りなどをして、母を慰めた。

 

そういえば毎年のこの遊びはこんなことをしていなかった。総じて母の願い事を一つとして満足させていなかったかもしれない。料理や菓子のようなものを勧めるにしても、母が友人たちに勧めたがるようなものがないかと確認して、また下働きの者たちが母の心の背くことがあればその者を叱りながらも、冗談を言いながら気持ちを和らげていた。家を出るときも帰ってきても必ずその旨を告げ、母が病気になればくつろがないのが孝行な息子であるが、三郎兵衛はこれを当然として、身も心も尽くしていた。

 

老母は九十で天命を全うし、去年湯島天神町で亡くなったと聞いた。三郎兵衛は憔悴して、泣き暮らしたという。三郎兵衛はどんなつながりがあったか。本当の親子ではなかったが、孝行を尽くした。実の父母については、私は聞いていない。この人は決して金持ちではなかった。孝行のために妻を娶ることもなく、母を養い一生を足ることを知っていたので、誠に豊かな人であった。

 

三郎兵衛は現在五十八歳で四十の頃から頭髪は白髪で孝行の苦労があったと見える。人々はこれを肝に銘じて真似て行けば自然にできるようになるだろう。

 


[1] 原文は、『孟子』の萬章章句上「大孝終身慕父母、五十而慕者、予於大舜見之矣。」

[2] 原文は、『古今和歌集』春下より藤原因香が詠んだ歌。「たれこめて春の行方もしらぬまにまちし桜もうつろひにけり」

[3] 弦楽器と管楽器の事。

 

どうなんかな。養子を貰ったということは、その店の跡継ぎが欲しかったのですよね。独身のまま親孝行で、親が死ぬまで独身だったというのもねぇ。

 

まあ、これも一概に不孝ものとも決めつけられませんが。