家を修めることは、まずは身を修めることだ。身を修めるとは道徳的であることだ。道徳的であるためには志を持つことだ。志を持つには、原因を知って恥を知ることだ。身を修め、徳のために大徳をもって大きく治め、小徳をもって小を修める。こういうことだ。
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ここで総括とは言っていますが、まだまだ続きます。
さて、まずは志を持てと言っておりますが、恥をかかないようにするためにと言わんばかりの表現です。恥をかかないようにというのであれば、その範囲で止まってしまうような気が済ます。それこそ恥ずかしいことになるんじゃないかと。
負けたくない=負けない範囲でしか動けないのに対して、勝ちたい=勝つための行動をするようなもんです。
なので、恥ずかしくない範囲でというのは却ってみっともないことになると思いますし、志を持つことはみっともなくないようにするような話でもないと思います。
その上で、人間には器なるものがやはりあるように思えます。30代ぐらいまではそんなの関係ねぇと思っていました。いわゆるネット用語で言うと中二病?意識高い系?ですかね。ですが、やはり理解力、洞察力、文脈理解力、集中力にはそれぞれの人ごとに限界が異なるように思えます。努力しても出来ないモノってありますし、それを越えてまでやろうとするのは痛々しい限りです。
五十にして天命を知る
恵比寿屋さんにとっては自分の限界を知る、その限界の中でできる最大限の事は何かを考えるようになりました。