伊勢両宮[1]には神嘗祭[2]の例では、例年内裏から勅使が参拝される。すなわち御所から両宮へ御幣を奉納なされる。これを例幣使という。勅使は御くだりになって、九月十六日十七日に神事を行う。これも天下泰平五穀豊穣成就豊饒の祈願である。これを神嘗祭という。

祭主(御堂士)は藤波家から毎年出られる。また、御所には年々新嘗祭の御神事があって、その年の新米をお供えする。新嘗祭の御神事の後、新嘗会のめでたいことがあり恐れながら上様にも毎年の豊作をお喜びになっている。

また、世俗を離れたお庭に田圃を開いて、毎年山城国の都に近い里から農民をお呼びになり、庭に田植えから秋の実りまで、朝夕にご覧になって、初穂を神々にお供えする。御田植えの時期は京都の町人女子供まで拝見をお許しになり、有難く深い思いやりと御恵みで農業の働きが強く、簡単には五穀が成らないことを恐れながらお慈悲をお示しになっていることは、有難く言葉にならない。この冥加の御礼を心のうちに申し上げなければならない。

このように和漢とも農業は上様にも尊んでいただき、仕事が大変で憐れんでいただいている。下賤の我々一粒の米であっても粗末にならないように、家の者たちは一緒にその恩を大切に思いなさい。近年は諸国とも米穀の出来が悪かったが、今年はどこの国でも米穀の出来が良く豊作である。喜びの余り私の家の者たちの心が緩んだので、また穀恩を忘れることを恐れている。日頃から三度の食事をして、家業を勤めるうちに繰り返して思い浮かぶに任せ、ついに一編の草紙に書き記した。仰々しく和漢の故事をいくつか挙げてしゃべったところで、実際に行うのは難しい。頷くのは簡単だが、常に注意して居続けるのは難しい。ただ米穀の恩徳を思って

 

天地の 限りはあらじ とみ草の 恵みにもれぬ 四方の国民

 


[1] 具体的のどの神社を指すのかは不明。山形県鶴岡市と岩手県遠野市にこの名前の神社があるが、文脈上伊勢神宮のことか。

[2] 宮中祭祀の一つ。五穀豊穣の感謝祭。

 

足りなくなれば輸入すればよいというのは、そのまま国家存亡にかかわります。すべての義務教育で林間学校と同様に水田学校農業体験を義務化して欲しいものです。