世の中にあるもの全て今でも神明に守られているので、一粒であっても神の御恵みがこもっている。だから疎かにならないように心得たいものだ。

皇大神宮のご神勅[1]では万民を憐れみ、今の世でも日本国中、水田の種は神にお守りいただくこと明らかである。一切の食べ物は天地の御恵みで成長し、諸神のお守りで実るのだ。五穀は神がいなければ成る事はない。だから神徳のありがたさを思い、出来初穂と言って神と産土神と供える。また、作らない工商を営む者は、初穂と言って金銭を御宮に奉納する。つまり、万民はみな工商の区別なく、昔は人は皆農業を勤め初穂を神に奉納することは明らかである。今、農業をしない工商の者は、初穂と名付けて金銭を御宮に奉納する。これを散銭ともいう。

散銭というのは神代の時ニニギノミコトが天下りなさったとき、稲の穂で雲を祓われたことが由来である。今、神社遷宮の先または神輿の先に洗った米を散らし、邪気や不浄を払うのはこれがゆえんである。

また、神社に詣でるときには元は米をもってお供えするのだが、今はほとんど金に変った。このように神々のお守りでよく実り、また稲荷大明神、住吉大明神、その他様々な神、その国地方をお守りいただくので、一粒の米でも神の御恵みがこもっているので、疎かにならないようにしたいものだ。

だから和漢ともに代々の帝王は米穀を大切にし、万民を憐れんでいることはありがたいことではないか。食べ物は全ての品々までも天地からいただくもので、その御恵みを深く感じてみな天に感謝してきた。有難いことである。いうまでもなく下々の民は当然である。

一杯の飯といっても心なく食べて、飲んで奢って飽きるまで食べ、遊びに耽る連中はすぐに天罰を受ける。恐れ慎んで食べなさい。

繰り返すが、豊かな時代に産まれて、万民は心安らかに農耕をすればまたそれを食べ、農耕しない工商は深く天地の恵みを仰ぎ大切にし、政治のありがたいことを朝晩御礼を申し上げ、さらに農業のおかげを強く意識して、毎日三回の食事に向かえばその恩を思い、先祖の恩徳を忘れないように、身を慎んで有難く用意すべきことではないか。

 


[1] 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是(これ)吾(あ)が子孫うみのこの王きみたるべき地くになり。宜しく爾いまし皇孫すめみま、就ゆきて治しらせ。さきくませ。宝祚あまつひつぎの隆さかえまさむこと、まさに天壌あまつちと窮きわまりなかるべし。」

 

神社に詣でるとき何でも初穂と書いて出して、これでいいのだろうかとと思っていましたが、それでいいようです。

地域によっては農村でも神社とのつながりがないところもあれば、街中でもつながりが強いところがあります。かなり地域性があるようです。

「記紀」(古事記と日本書記)を解説した本はたくさん出ていますが、意外と神勅に関しての本は、神職になる人向けの本ばかりで、一般人が読むような本がありません。

一神教は常に神の存在を意識することを常に強いられる宗教、仏教は楽になるための思想と修行、、神道は神を感じる宗教だと思っています。だから、あまり解説本が出ていないもかもしれません。