自分の体は父母から頂いただけではなく、天地神明の恵みで得たものであるから自分のモノだと思ってはいけない。いわゆる病は口から入るようだ。恐れ慎むべきことである。だから身を慎み、分限を守りなさい。接客する者がいれば、客は馬鹿にされたと怒るであろうから、分限相応の料理を出すことになる。このように美服美食を普段からするので、少し丁寧にすればことのほか必要なものが出てくる。

昔は工商を営む者が少なかったので利益を得られたが、今は工商が多くなって利益を取られまいとして、利得のない細工を受け取れば利益は少ない。また百姓は工商の仕事をしたがるので、耕す人が少なくなる。そうなると農業生産量が減れば、豊作であっても五穀は高い値段になるのではないか。

世の中には織らずに服を着て、耕さないのに物を食べる人が多くなれば五穀はもちろん絹やその他のものまで高値になり、雑用が多くなっていく。昔は商品が少なかったが、民は自分の分限を第一に考えて、守って奢らなかったからこそ暮らしやすかったのだろう。今は商品が多く生まれ国の富みを有難い時代になって、いつしか庶民が身分不相応の金銀を使って奢り、毎年資金不足になりついに困窮のもとになる。毎朝毎夕粗食に、寒さも粗末な服で過ごし、これで足りると思ったことが何度もある。

孔子がおっしゃるには、「道に心を閉ざして、粗末な服に粗食を恥じる者を相手にしてはならない。」、また古語にも「財産が多く拙い身を守る」とあり、無駄なことに金を使い減らすことがなく、始末を知り倹約を守りそれぞれの分限を守る親から伝わり、家業を第一に考えて、油断なく勤めるべきである。このようなことを父から教えを受けた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この当時は農業はほとんどすべて人力でやっていたので、こういう懸念が出てくるのは当然でしょう。今も似たような考えをしている人がいます。

農村地域の町おこしです。私はあれについては全く無駄な行為だと思っていますし、むしろ害悪だと思っています。農業の機械化が進んで、来ていますので労働集約的産業から資本集約産業に代わりつつあります。そこそこの量と質を維持するならば、農民の人口は減って当然です。

つまり、人余り現象が起きているのに地域の衰退を憂いても仕方ないのです。

むしろやるべきは、もっと効率化を進めて、農村に住む人を町中に連れてくるべきことではないかと思っています。とんでもない山の中で、水道や電気の供給を受けることはとんでもなく贅沢なことのはずです。農業が労働集約産業であった時代はそれでも社会的意義がありましたが、今はその意義はないのではないかと。