昔は物事を全て手軽に済まして暮らしがしやすかった。『徒然草』に、最明寺へ入道殿の鶴岡が御社参したついでに、足利左馬入道[1]のもとにまず使いを出してお入りになった。このとき、初献[2]の肴に裏鮑、次に海老、次にかいもち[3]で終わった。最明寺殿がおっしゃるには、毎年いただく足利染め[4]をお求めになったが、急な話なのでその準備がなされてないとおっしゃられた。数日後に用意されたと『徒然草』にある。時代を考えてみると、亀山院[5]の治世である文応年間[6]のことだ。この頃までは上様もこのように気軽にお取り計らいいただいているように思える。

古いことはさておき五六十年のことを父母に語ってもらい、目の当たりに思いつづってみる。風習の変りようは目の前で起こっていることのようだ。享保の頃までは女は葛のつけ汁で髪を整え、髪飾りも櫛、かんざし、笄だけで、しかも丸く小さくして、その形は華奢である。衣服もほとんどの女性は、冬は縮緬の小袖、夏は越後縮、長さ四尺二三寸、振袖二尺二三寸、帯の幅も八九寸、高宮絹を美服として、下女は加賀染めの小袖、夏は染晒、草履は破竹表である。男は植田縞、紬の紋付、夏は晒の紋付、生絹の羽織を良い品としていた。

今は、下女でさえも夏は越後縮、冬は縮緬に羽二重、丈が四尺七八寸、帯の幅が二三寸草履の鼻緒をビロード、表を色々と好みに合わせているので、主人と変わらない緞子毛織[7] の類、または綸子[8]と紗綾、夏は紋紗と紋路被衣[9]も絽紗被衣の類を使い、振袖は丈二尺七八寸を最上級として、小袖の裏まで模様をつけてある。さらには、金糸で縫い付け、下には緋むくを着て、碌でもない奴らですら緋や縮緬を着ようと、それぞれ勝手に鹿の子を結い白い模様、素縫いをして御部などは帛紗か山鉾の飾りを幕よりも見事になっており、髪飾りも櫛、笄、かんざしを昔より三倍にして、様々なものをつけて、木の櫛を金粉をまぶした蒔絵を散らし、銀のかんざし、五色の染紙、金銀の尺長を二三枚ひらつかせている。牛の玉の陰干しのようなものを針金で、これを後ろの気を膨らませている。連れ添う夫は、牛のような涎を流している者もいるだろう。

油には丁、香りのするものを入れ、松金油、ぎんだし、水油などと言って、これにも香りを入れて塗りまわし、頭の費用だけでも一人分で二人分の食事代にもなるだろう。

 

この横に張ってある幕


[1] 足利頼氏という説と泰国の叔父である足利義氏(頼氏の祖父)を指す説、

[2] 酒宴での最初の盃のこと。

[3] そばがきのこと。

[4] 栃木県足利市で産する染めた織物。

[5] 亀山天皇(かめやまてんのう、年建長元年(1249)- 嘉元3年(1305))は、日本の第90代天皇。

[6] 西暦1260-1261年

[7] 繻子織(しゅすおり、朱子織とも書く)は、経糸(たていと)・緯糸(よこいと)五本以上から構成される、織物組織(三原組織)の一つである。

[8] 綸子(りんず)とは、繻子織地に繻子織の裏組織で模様を織り出した絹織物の一種。

[9] 女性が外出時に頭から被った布。

 

それにしても、この著者はよほど女性の服装に恨みがあるのでしょうか。

さて、女性の化粧や衣類に関しては、どんなに不況になってもそれほど消費は減らないそうです。なので、景気の変動を見るには、デパートでの紳士服の販売状況を見たほうが如実に分かるそうです。