伝え聞いた話では、飢饉はおおよそ五十年に一度はある。だから用心しなければならない。私の祖父母は常に多めの漬物を作らせ、干菜をして芋の葉を切干にして、あらゆる干物を貯えていたのを若い人はそれを見てうるさがり、無益な世話をさせられることを嫌う。これ叱っていったことには、

「お前たちは、飢饉の悲しいことを知らないからだ。私が若いときに飢饉の年があって何万人の人が青く腫れあがって町中に溢れて飢え死にした者は数知れず。必ず飯粒を粗末にするな。米は当然菜っ葉であってもその辺に落としたままにするな。洗って使いなさい。

最近は米がこぼれて落ちている所がある。また飯を捨てているところもある。悲しいことに遠くない将来に飢饉があるだろう。

古老言い伝えに、食べ物を捨てるようになるときは、必ず凶年が近いと聞いた。痛ましい世の中のあり様と怖がられたが、果たして享保十七年[1]子年、西国から京都近隣に至るまで大凶年で、稲にウンカという虫が入り込んでほとんど枯れてしまった。このときの最高値の米は享保銀で白米百二十目[2]までなった。

一両日に米屋は全く一軒も売る人がいなかった。京都のある家で、非常に困った人がいてお願いに来た。

「私たちは数年、飯米を二三石ほど小分けで買って米屋に預けておいて、白米を五六斗づつ取り寄せて使ったのですが、翌年丑年の正月にコメの値段が急騰し高値になってしまいました。小分けで買っていた飯米はほとんど使いつくして、今日買わなければならないのですがあまりの高値で、明日はこれほどではないだろうと二日ほど見合わせているうちにこのように百二十目になってしまい米を使い切らないようにしています。買おうとしても人は売ってくれないし、この先が読めないので一家は縁のある人のところに借りに行くと言っても借りにくい状態で困っています。薄い粥にすれば、明日一日分はあるでしょう。明後日はどうしようかと考えているところ、幸いにして翌日米の値段が二三匁も下がったので売る人も出てきて何とか難儀を逃れました。畳の上で飢え死にするかと肝を冷やしたことがありました。私たちはそれ以来これに懲りてご存じのように狭苦しくなりましたが土蔵を作りました。毎年使わない米を四俵か五俵を蔵に入れていざという時のためにもっています。これはあなたのために話をしているのです。普段から、用心のためコメは少しであっても持っておきなさい。飢饉の年は、飢え死にするかもしれませんよ。」

と言った。

 


[1] 西暦1717年。このときの大飢饉で西日本の諸藩は収量が20%近くまで落ち込み、250万人が飢えて、『徳川実記』によれば97万人近くが餓死したという。

[2] ほぼ2両に相当するので、公定価格では1両で1石なので約8倍に上がったことになります。

 

この飢饉をきっかけに享保の改革が始まります。

今の日本は食糧自給率が先進諸国の中で圧倒的最下位です。食料とエネルギーがなければ、確実に1か月で日本は全滅します。この辺りをよく考えて産業を考えなければなりませんが、程遠いですね。