くちなはの辻子[1]とやらを友人を頼って、住居も定まらないと聞いた。どうしようもなく伏見の昼船に下り、例の御堂前の親類の家に落ち着いた。以前から考えていた細工があって、檜の板を仕入れて雛箪笥や長持、厨子や黒棚など様々な小細工をして塗り蒔絵や銅まで自分一人で昼夜精を出してきた結果、節句の前になった。世話になっているところが雛道具屋でその時の流行に合わせて細工を施した。値段が安いので売れ行きが良く、世話人も喜んだ。利益が少し出たのを喜んで、小細工の店有れるものを出せよと勧められたが、親方の怒りで止められた仕事をしては気まずいと正直一辺の心から、雛道具の仕事をした。その正直を見込んで久太郎町あたりで一間半ほどの店を出して、新たに世帯を持った時には僅か十貫の元手から職人はわき目もふらず精を出して銀延(かねつけ)に集中して朝は六つ時に起きて店に出て、一日外に出ないつもりで茶瓶風炉(ちゃびんふろ)をそばにおいて飯を炊いて、その日その日を細工作業に使った。鉋、ノミ、小刀を研いで、食事をするときは手間がかからないようにと梅干だけを食べ、見栄えがよいおかずは買わず、わずかな時間も惜しんで休みは五節句だけであった。それですらも、近所の手前そうせざるを得ず、夜の作業はいつも通り一年中細工をしていた。金は貯まり二年の間に六七百貫になり、目に見えて収入が増え、近所からも評判になった。岡目八目のやもめでは済まないからと女房を貰えと進める者もいれば、女房よりも弟子を取った方が銭儲けになるとけしかけたり、子供のころから奉公させなければ親方の為にはならないと丁稚を置いて仕込み、二三年経つと弟子も五六人に増えたが、家族は独りもいなかった。一年中お手伝いさんを雇い、様々なことを任せ、一日、十五日、二十八日には必ず生魚用意させ、自分は精進だと言って簡略にした。五節句の休日は相応に金を与え、無理やり働かせるようなことはなく、精を出さなければならないように人を使った。総じて職人気質ではあるが、以前に勤めた親方には懲りたので、精出すところは職人、気持ちは商人のつもりで売り先の問屋や、仕入れの材木屋などの見込みがはやかった。同業種の中でも利益が多く、年々注文が増え弟子を多く抱え、三十九の年で女房を持ち、四十八のときに安土町あたりで五間間口の家と蔵を買い、当初は雛道具からこの仕事をしていこうと思った。嫁入り道具全てを扱いますと看板を出した。このように出世した律儀で正直者、あの懸命さであればどんな仕事であっても暮らしていけないはずはないと同業者の励みになった。


[1] 現在の東大路通の八坂道と清水道の間で、玉水町と辰巳町を通り安井御門跡へ出る旧安井道のこと。

 

今の時代よりおかずは少なく、一汁一菜が基本でご飯は一食一合が原則だったようです。この食事に関するところは同意できませんが、物語なので極端に言っているのでしょう。

さて、本業に加え副業を推奨するようになってきました。これも残業しないでさっさと帰りなさいという趣旨でしょう。

私も副業でやっていたことを自営として始めましたが、所詮副業とはだいぶ違います。副業は副業に過ぎず、これで本格的に稼げる人はほんの僅かでしょうね。

ただ、気分転換にはいいですね。その範囲にしておきましょう。