金五十両の奉公請け状[1]につけて暇を出た時は、私は親方のおっしゃった恩を有難く感じていただいたことは今になっても忘れません。男は裸百貫[2]とさえいうが、こんな大金を頂いたからには出世するのは今しかないと喜んで、まずは二十両を親に渡し、弟に両親の世話を頼みすぐに旅立ちました。両親は荷役作業員をしていましたが変わり者で、出世しなければ帰ってくるなと励ましてくれて船宿まで見送られ、夜船に載って伏見に上がり、以前から内内で決めていたしておいた京都の呉服所[3]で落ち着き、商売の相談をしていたところ親切な人に、助けていただいて手代付きでご当地に出店を下さりました。はじめて浅草で小さい裏店を借りて、絹布の転売し、当初は袖口・衿裏・糸物やはっかけの類を背負って、あちらこちらの町の裏の方まで売り歩き、大きく利益を得て、そこからだんだん手前店へ移り、お得意さんを引き寄せる商売のやり方をして、元より手配先の人のよさに、僅かな元手であるが、お客さんを手広くし、少しは金を設けはしたが、僅か三年の間に五十貫匁ほどの買損をしてここが分別すべきところ、金儲けもその身の運が来なければ金は身に着かない。商人はその土地のやり方、人気を考えなければ商売をして立身出世はできない事とはじめて理解できました。今一度商売を建てなおして、例の手配先の呉服所に詳細を説明して勘定を立て。借りている者は借り、預かりは預かりとそれぞれ分けて、手代を見立てて家を任せ、損が出ている人には商売が暫く厳しいということで、売掛金は一銭も求めないで損として処理し、自分は以前のように三十両の金を用意して、これだけの金で立身できないのは能力がないのと同じだと思いいろいろ工夫しました。そこで小者を一人連れて房州に下り干し鰯を仕入れて、僅かの金しかないのに二三千両持ったような顔をして、小者の持っているはした金で百両包みのような形を作って、何包みを入れて、数珠状にくくって衿にかけて見せて、まずは落ち着いて宿屋の亭主に分けて、預けました。亭主はびっくりして、「この中は全部金でしょうか。」と真顔で聞いてきました。

 


[1] 今でいうところの雇用契約書のようなもの。

[2] 無一文のものであっても、百貫の価値があるという諺。

[3] 江戸時代、幕府・禁裏・大名家などに出入りして衣服類などを調達した呉服屋。

 

大きく張るところは張る。これは商売の鉄則のようです。

 

有名な話ですが、ソフトバンクがまだ創業間もないころ、展示場で大手一部上場企業が使う広さの3倍近くを借りて展示したそうです。そんなに売るものがないじゃないかという状態だったそうですが、逆になんだこの会社はと人目を引くことに成功したそうです。

 

日本人は、ちょとずつちょっとずつ投資を増やしていき大きくする事ばかりを考えますが、それではなかなか大きくなれません。大きく投資をすべきところは何か、物なのか、人材なのか、宣伝なのか、見極めて大きく投資することが重要なのです。