こうしてこの年の秋の出来は非常に悪かったので、米の値段は六十七八匁になり、段々値段が上がっていったが、天明二年寅年七月九日と八月九日の大風で作物が傷んでしまい、十二月から翌年正月になり庶民は当惑した。

 

 

おそらく困窮する人も出るだろうと思っていたところ、七月六日七日に信州の浅間山が爆発し、頂上に御釜という大穴が空いた。この山は本来硫黄が採れる山であるが、御釜から硫黄が燃えて、六日の夜は京より遠くの西の国まで揺れた。この山は碓氷峠と並んで浅間山と北西にあり、碓氷峠は南東にある。

 

 

浅間山融雪型火山泥流発生時想定マップ

 

山のふもとには、追分、沓掛、軽井沢[1]という宿場がある。この追分から江戸まで三十七里ある。浅間山から江戸は東南東の方角にあり、西風が吹くと焼けた砂は江戸より東に飛んでいく。碓氷峠は大難所であり歩きにくい所であるが、一面やけ砂の山になり、草木はことごとく焼き枯れて今となっては少しも芽が出てこない。何年過ぎても芽が出るかどうかは分からない。この街道は江戸までの間、あちらこちらと人家が多く、家は破壊され人が多く死んでいる。牛馬は新で利根川に流れて、山からは熱湯が流れ、真っ赤に焼けた石や砂が吹き出し、十間から二十間ほどの大きな石を吹き出すほどで、言葉では言い表せない。熱湯に溺れ火の石に打たれて即死する者が幾万人いたか分からない。利根川へ流れ、江戸に流れ着いた死体は数多く、何十万石分の畑が使えなくなり、未だに田んぼが作れないところが多いと聞く。これはわずかに生き残った人が伝えるところである。

 


[1] 追分宿(おいわけしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場で長野県北佐久郡軽井沢町追分あたり。

沓掛宿(くつかけしゅく)は、十九番目の宿場で現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢あたり。

軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、十八番目の宿場で長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側あたり。

 

詳細は、国土交通省のページを見ていただくとして、阿鼻叫喚が目に浮かんできます。

 

火山や地震は非線形の現象なので予想不可能なんだそうです。地震予知はまやかしだということです。実際今年H30年の大阪での地震は、危険度から言ったらかなりランクは下の方でした。

 

要するに日本全国どこでも似たような物なので、準備はしておかなければならないようです。