これは米穀が沢山あるので飢饉の事を忘れたからである。天運循環して無往不復[1]と昔の人の言葉どおりで、近年になって飢饉がやってくる兆しがあると言っても、驕りに長じて見なければ誰もそれに気づくことはない。ここに安永七年[2]から竹に病気がはやったがそれが飢饉になるとは思わなかった。昔から、竹の病気がはやったときはっほぼ確実に飢饉になると昔からの言い伝えがあるが、そのときに対応する人がおらずただの空事と用意する人はほとんどいなかった。特に米の値段が安いので、一年に一粒か二粒しかできなくても大したことではないと思うような時代である。

 

しかし、油断大敵と昔の人は警告している。先年の竹に病気がはやったのは苦竹[3]であるが、今回は淡竹で、亥子の年から始まり今年になっても病気が止まないので、遅かれ早かれ淡竹は枯れてしまうだろう。先年は苦竹に病気が出たが樋竹には病気が出ず、木を削って樋を作ったと聞く。これは享保年間の事であろう。この享保子年[4]に西国では虫が発生し飢饉となった[5]が、今は西国あたりで田地に虫が入りそうになると、鯨油を一反あたり二三合流し込めば田地の虫は死ぬことが分かって、みんな鯨油を用意したという。しかし、病気の状態によっては薬の効きが分かりにくく、鯨油の効果によって稲虫が入らない事が間違いないならば、西国に限らず諸国の農民は喜ぶところだ。京都では西国の米穀を食べていることから、特に望ましい事である。全て飢饉に限らず災害は天地がする事であり、場合によっては人の手ではどうしようもない事もある。だから予めにその儲けで準備しておくべきだ。

 

また安永九年子年[6]は、米穀が特に安く白米一石[7]で五十二三匁、質の悪い米で良ければ四十匁[8]で売られていた。天明元年丑年[9]の夏は米の値段が下げ続け、取引もほとんどなく不景気で困ると言いふらし、非人は米を貰っても銭にならないから、草履やわらんずなどを作る方がマシだと言っていたそうだ。その年五月の今宮神社の神事の翌日、私と何人かで出かける用事があった。そのときから雨が降っていたが、すし飯を家の門先に捨てで、磯に打ち寄せる白波のようであった。同年六月の祇園会のあと、道端にまたすし飯を捨ててあり、腐っているのを見て、私は翌年は飢饉になるだろうと思った。なぜかと言うと、祇園会に寿司飯を捨てる事が多いと、必ず飢饉になる前兆だと、ある老人が言っていたことを思い出した。その上町中に米がこぼれていることが多く、人間だけではなく鳥類や動物すらも食べようとしないように思える。

例えば、内臓の調子が悪く食欲がない病人のようである。米穀の徳を失いおいしいものを食べ衣服や家を飾り、贅沢する他にする事がない時代と思える。

 


[1] 「四書五経」の中の『大学』の一節。「天運というのはぐるぐると循環するもので、行って帰らないというものはない。」つまり、物事は繰り返すの意味。

[2] 西暦1778年

[3] 別名、真竹。

[4] 享保五年、西暦1720年。

[5] イナゴの大発生で、農作物は片っ端から食べられた。

[6] 西暦1776年。

[7] 一石は150kg。

[8] 一匁銀で1500円ぐらいなので、質の悪い米で6万円並の米で8万円、現在だと10kgで4000円から5000円ぐらい。

[9] 西暦1781年。

 

この発想は神戸震災の時に一部の人たちが、バブル景気で日本人が傲慢になったからだとと言っていた人がいました。東日本大震災でも同様な事を言ってましたが、少なくとも因果関係はあるとは思えません。後知恵で、あの時もっと節制しておけばよかったとか、そういう解釈の方が普通でしょう。

 

とは言え、金があるからとか儲かっているからとかで物を粗末にしてはなりません。特に、この当時は米本意制度でしから、贅沢は米以外の送品作物を作る事、すなわち藩にとって税収が減ることであったので、川の土手工事の予算の問題にもつながるのでこういった価値観につながったのかもしれません。

 

高度成長期では、贅沢を我慢してひたすら稼ぐことが国内では美徳、海外ではエコノミックアニマルと言われた原因でしょう。これの良し悪しを議論するより、こうでもしなければ災害を乗り越えられなかったと考えた方が良さそうです。