2003年、夏。この日も暑かった。
俺は寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」に感化され、完全に中二病を拗らせた挙句、大学を辞めた。
「だいせんじがけだらなよさ」
こんな調子でスッパリ普通の道から脱線したのだ。
さて、退学したはいいが、何もやることがない。
このまま親のスネを齧り続けるのは流石に心苦しい。近所の目もある。
金も必要だし、今のバイト(スーパーの総菜屋)だけではとても生活できない。愛犬の柴犬のつぶらな視線が痛い。
そんなある日、親友(以降、サトちゃん)から割の良いバイトの話が舞い込んできた。
日当9000円、朝昼晩飯付き、泊まり込みだが宿代無し。
彼の実家は仮設住宅建設を営んでおり、数か月前に発生した新潟中越地震の復興の仕事があるのだが人手が足りないのだという。
大学を中退してから、寺山文学に出てくる所謂ヤクザ者的な男に憧れがあった俺は、震災の復興という、ある意味極限の状態に魅力を感じた。
【クソは地面に穴掘ってすることになるかもしれんぞ!!】
採用当日、15時ころ、サトちゃんとその父親(以降、社長)が待つ会社の駐車場に集合する。
「お疲れ様です!!本日からお世話になります大と申します。よろしくおねがいします!!」
「おお、元気がいいな!サトの友達だろ?まあ、気楽にいこうや。これから新潟の長岡っつう所に行くが、多分3ヶ月は帰って来れねーから」
「はい!!」と返事したが「おい、マジかよ」と内心ビビッていた。
生まれてこの方、親元を離れたこともない甘ったれにはかなりの冒険である。
だが、自分で決めた道だ、後戻りはできない。それに、今の俺には金が必要だ。
「元気がいいな!気に入った!未経験でも仕事は腐るほどあるから安心しろ。それと、大ちゃんはキャンプとか好きか?」
はて?仕事の休みにレクレーションでも開催してくれんのか?とお花畑全開の俺は「はい!好きです!」と即答した。
「そりゃ良かった!なんせ今から行くとこは被災地、下水とか使えない可能性あるから。クソなんか地面に穴掘ってすることになるかもしれんぞ!ガハハハッ!」
「おお!ファンキーですね」(レンジャー訓練並みじゃねーか、キャンプで野グソしねーだろ…)
宿で寝泊まりするんじゃねーのか?
一抹の不安を感じつつも、ここまで来て引き返す訳にはいかん!
いざ出陣!
社長はUD製4トンユニック、俺はサトちゃんが運転するマークⅡX80型に乗り込む。
これから新潟県長岡市までは北陸道をひた走ることになる。
俺の住む中部管区から新潟県長岡市までは北陸道を4時間程走る必要がある。当時19歳の俺からしたら、ロングドライブな気分でテンションアゲアゲである。
そんな俺たちとは対照的に社長は「高速は一定速度で単調な景色が続くから、大ちゃんはサトに話かけるなどして居眠り防止に努めてあげて!」と冷静に指示を出してきた。
さすが、一人親方として依頼があれば全国各地で仕事してきた人が言うことは違うなぁと感心していたが、そんな心配一瞬で吹き飛んだ。
22年も前の話なので書くが、この親子そろってスピード狂。とにかく飛ばす飛ばす。
当時の大型トラック運転手とか、こういう業界の猛者達はひたすら男の道を突き進んでいた。
居眠りなんて考える暇もないくらいの速度域でガンガン進む。
4トンでぶっ飛ばす社長もいかれてるが、それに負けず劣らずサトちゃんの運転も凄まじい。
マークⅡX80型のフワフワのサスで高速のカーブに突っ込んでいく。サスが伸びきってるんじゃないかと思える程の横Gがかかり、これで横転しない国産車の完成度の高さに関心した。
しかし、このまま行けば本当に「だいせんじがけだらなよさ」なっちまうと生まれて初めて南無観世音菩薩と心の中で念仏を唱えたのを覚えている。
エンジンが燃える程の速度で無事に長岡に到着したころには夜は更け19時ころになっていた。
ほぼノンストップでガソリンタンクは空になりかけていたが、無事に到着。
トヨタ自動車、すげーよ。
社長、サトちゃん、次はどちらかの車、僕が運転するね。
このように俺の仮設住宅屋人生が始まったわけだが、この仕事かなり良い仕事で段取りさえ覚えれば大きなプラモを作る要領でこなすことができる。
厳しいイメージのある職人の世界だが、俺の場合親友の家業の手伝いだったため、ぶん殴られるなどの事もなかった。
日当は8000円と聞いていたが、実際は9500円
朝の8時から17時まで、残業はほぼ無し。
週休1日だったので、月に26万ほどになった。出張の間は光熱費、食費、家賃なし。
こんな仕事さがしてもないよな。
そんな新潟での生活は本当に今でも良い思い出である。
お世話になった老舗ビジネス旅館、最上階に大浴場があり、女将?のヌード画が飾ってあったな。
若い俺は不覚にも興奮してしまっていたよ。
夜の長岡も今とは違い、震災バブルに沸いており、殿町はあちこちにイカガワしい店があった。
旅館の婆ちゃんに「狐のとこに行くのか?ダメだ、行くんでねえ!!」って言われたなあ。
トトロの婆ちゃんそっくりだったな。
今でも忘れない、チャイナエステで「スマタデキテ」って言われて、とても温かかったことを…俺の知ってる素股ではなかったことを。
幸い今も生きてるので、ガチャは外れた訳だ。
仮設住宅屋での経験を思い起こすと、確かに景気や天気に左右されるこの仕事は大変な事は多々ある。
だが、肉体労働で体を酷使した後のビールは通常の何倍も美味く感じるし、汗を流し太陽の下で仕事をするのはメンタル的にも良い。煩わしい人間関係もない。業界全体で気持ちの良い性格の人が多かった印象だ。
一生の仕事として続けるのも今となっては有りだったなと思うが、当時の俺には中二病なりに夢があった。
これが今に至るまで俺を苦しめることになるのだが、そんな事、当時の俺は知る由もなく仮設住宅屋は5年で辞めることになる。
夢であった警察官になれたのだ。
次回は警察での仕事になります。
