これを言うと大概の知り合いはふーん、と微妙な顔をして返事するか、ニヤニヤして「もしかして、厨二病?」と、嬉しそうに聞いてくる。
この感覚をわかってくれないものか、それとも僕の説明が下手なのかは分からないけど。
僕はある日、赤チェックのシャツを着て、燃えるような緑の中を走っていたのだ。
これは別に比喩表現とかじゃあなくて、そう見えたんだ。
おそらく10歳にもならない頃の、秋だと思う。緑の炎は、僕のシャツや脚に絡んで、僕はこれ以上ない幸せを、そこに見出せたのだ。
遠くで呼ぶ声は兄だ。楽しそうに声を張り上げ、僕の名を呼ぶ。
そこにはアスレチックがある。長い滑り台もある。
兄と僕はそこでごっこ遊びをするのだ。
その日の記憶が、蘇るときがある、そういう話なんだ。
当然君には見えないことと思うんだけども。これは僕の記憶だから当たり前だ。
君にもあるだろ?何の後ろめたさも感じずに過ごせた、幸福な時間が。
雪のシンと積もる街で、あるいは夏の透き通る川で、もしくは家の中かもしれない。
僕たちは全力だったし、いつだって幸せだったような気がする。泣いたりするかもしれないけど、後々振り返れば大したことじゃないさ。
でも、今はどうなんだろう。全力で走れているだろうか。そんな場所も、時間も、無くなってしまった気がする。
僕たちはあの頃より目が悪くなって、眼鏡をかけているけど、あの頃より、不幸な事実も、幸せの裏側も、よく見えすぎている。
だけどね、不思議なことに、子供は自分のことを子供だとは言わないし、そう信じないんだ。自分の妹や下級生を見てこの子たちは子供だなぁと感じるんだ。
僕たちは今、自分のことを子供だと思っているか?そんなことはないと思う。
つまり、たまに想起される幸せな過去も、今も、僕たちは変わらない幸せの中に生きてるんじゃないかって、思うんだ。
それに気付く度に、あの日の記憶が重なって、「もっと一生懸命生きなきゃ」って、思わされるんだ。一生懸命生きれば、後になってそれは「幸福な事実」へと変わる。
だから、そんな顔しないで。君はまだ生きていける。今この橋を飛び降りる必要なんて、無いんだよ。
