北澤平祐さんのイラストに惹かれて手を伸ばした。パラパラめくって、数ページ。この本を読まなくてはいけない、という思いがした。

遅延待ちの電車内で、読む手が止まらなくなり、アナウンスに慌てて駆け下りて。

本を握りしめたまま、心臓が静かに、速くなっていた。

 

こんなにも解説に心を救われた事は無かった。

全て自分の中で、解決も咀嚼もできると思ってたのに。

とても抱えきれない、ばらばらになってしまいそうな気持だった。

 

この本を読んで、自分にこんなことは、一点の曇りも齟齬も、誰かをうちのめしたことも何一つ無いと、言い切れる人なんているのかな?

苛烈に攻撃を受ける前、前半の登場人物の物言いに、違和感や不快感はあったけれど、リアルでそれを私は口に出して咎めるかな?

だからこそ、後半で私は登場人物と一緒になって責め立てられ、恐怖し、こうなっても仕方がないと身体を固くするしかなく。辛くて仕方ないのに、その先を知ろうとする。あなたが何を思っているのか聞かせてと、ページをめくる。

『パッとしない子』『早穂とゆかり』は、語り手が焼き尽くされて終わる。

大して深く考えていないことが露呈するだけの、浅い言葉を返して、身を守ろうとする…。

勝てないよ、それは。

魂を傷つけようとする残酷な痛みを、苦しみながら繰り返し取り出して向き合って、考えに考え続けた相手に、たった今初めて目を開かれた人では、あまりに言葉も感情も浅くて無力。
 

私が震えて困惑したのは、一緒になって責められながら、応酬は一緒じゃなかったからかもしれない。自分がしようとする心の動きが、語り手には無くて、自分で自分の心を救えなかった、作品の中で立ち向かえなかった、という所なのかもしれない。

そんな風に整理して考えられたのは、解説のおかげ。「生き残ること」の項は本当にそうだと思った。

美穂には、入場門の事を言ってほしかった。記憶違いなわけはない、私にとってあなたはあの瞬間、パッとしない子などではなかったと、あなたがどう思おうと、あの瞬間を私は覚えていると、図工教師なら、それを美穂は矜持として言わなければいけなかった。

早穂は、もっと喧嘩しちゃえばよかったのに、と思う。そして、トドメの攻撃にこれは仕事、きちんとしましょうと言ったのはあなただろうと、反論してみてほしかった。(ビジネスとして最初から礼を欠いていたので、勝ち目は全く、乏しいですが…送り返すことに、意味があると思う。)

打ち砕かれてから、両者はやっとスタートラインだったのじゃないだろうか。

そこから自分が「幽霊になる」だけではいけない…生き残って対話をしなければ…解説の通り、それが生きてできること。

傷つけてしまった側が発するべきは、自己保身の弁ではなくて、「私から、あなたへ」のメッセージではないだろうか。ぐちゃぐちゃでも、その時言わなくちゃ二度と会えなくなる。

嚙みあわないのは、過去ではなく今の会話だ。決死の思いで投げつけられた痛みを、ごまかさないで打ち返せるか。

 

そう考えると「ナベちゃんのヨメ」が一話目だったのは、大きな意味があったのだなぁと思う。

直接の対話でないにしろ、佐和は自分達のしてきた悪意のない(見ないようにした)扱いと、ナベちゃんの受けた痛みに考えを巡らせている。そしてそれを、人に伝えられている。とても勇気が要ったと思う。

「ママ・はは」のスミちゃんに、最後うすら寒い風が吹くのは…「母」と対話する機会が永久に失われているから、今が願った状態であっても、解消できない行き場のない「幽霊」が残っているのではないだろうか。

 

日常の悪意は、近頃流行りの「ざまあ」展開の作品と違い、煙のように鼻先をかすめて、チリチリと苦い、目立たない低温やけど未満みたいに、柔らかい部分を熱し続ける。過ぎ去ってからではつかめないし、跡形も無くて、大抵の場合文句を言う機会を逃す。

けれど、ああ、深く考え抜けば、言葉でこんな風に徹底的に勝つことができるんだ、と。身震いするような力も、感じた。