「関ヶ原の戦い」において、西軍の敗走が濃厚となった時、島津義弘は敵(東軍)の
中で、自刃を覚悟しますが、島津豊久が必死に説得したとされます。そして島津勢は
正面の敵 8,000を突いて伊勢街道から撤退するという敵中突破を試みます。
この時とった戦法が「捨てがまり」です。これは退却する際、数名の殿(しんがり)が
その場に留まって押し寄せてくる敵を足止めにし、時間を稼ぎ他の部隊を逃がすとい
う戦法です。この捨て身の戦法を引き受けた島津豊久は若干30歳の若さで討死しま
す。しかし、この武勇伝によって島津豊久の名は全国に知れ渡りました。
大垣市上石津町に多くの史跡が残っているので巡ってきました。
上多良町に関連史跡が多く残ります
墓の入り口です
新しく建てられた案内板
近くにある島津豊久公の菩提寺
この様な道しるべをたどっていきました
白狛子谷
島津豊久公自刃の場所です
関ヶ原にほど近い
烏頭坂(うとうざか)にも
「島津豊久の碑」が
あります
大正時代に
島津忠重(第30代島津家当主)が
建立したようです
新しく建てられた案内板
この後
島津義弘は
五憎峠を越え
多賀などを通り
難波の港より
薩摩へ帰還した
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