深夜になっていた。
 華が行方不明になっているのに、ツグオはK高校の北校舎に向かって歩いていた。夜中にもかかわらず、校長室には明かりが灯っていた。重い足取りで辿り着き、ノックをすると、校長の大酉がドアを開けた。疲れ果てたツグオがもたれると、大酉は驚きつつも彼を抱きしめて言った。

「なあ、長井、蓮が警察に連行されたらしいぞ。さっき緊急ニュースでやっていたんだ。蓮は、もうお終いだなぁ」

 ツグオは驚き、「え、蓮さんが逮捕、どうして……俺、電話で話したばかりだ」と問い返した。

 大酉の話では、西芝家の娘の記憶が戻って、蓮に誘拐されたと訴えた。それで西芝代議士が激高して警察に通報したとの事。それを聞いたツグオは、「キイノの記憶が蘇ったなら、シスターの、あの魔力が消えたんだ!」と考えを巡らせた。
 魔族の蓮を排除する目的であるシスターが動き始めたに違いない。カズキ、すなわちシスターが林檎屋敷にいないのはそういう意味があったのだ。

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 翌朝、ツグオは自分のバッグを持ってK高校の北校舎を出て行くと、何度も振り返り、だが、その視線は建物ではなくて、何処までも青く澄んだ空を睨みつけていた。
 大事な物を失った目に見えるもの全てが憎く思えて、叫んでしまいたい、自分が華を見失った責任感、誰かに擦り付けてでも逃げたくて堪らない。あの空を力一杯蹴り上げたとしても誰も傷付いたりはしないだろうに悲壮感が渦巻く。
 どんなに後悔しても時間が戻る筈もない。とにかく、進むしかないのは判っている。

 ツグオは、登校中の生徒たちを避けるように逆方向へ歩き始める。彼の心には、何か決意が宿っているようだ。しかし、突然、大きな人の壁にぶつかってしまう。

 その壁の正体は、田部。ツグオは一瞬目眩を覚え、自分の額に手を当てて俯いた。もう逃げ場はない、それでも、心のどこかでこれで良かったのだと思う自分がいた。

 ツグオは田部の腕にもたれ掛かり、田部は優しく受け止め抱きしめる。この瞬間、ツグオはとても愛おしいものを手に入れたような気持ちになった。
 ツグオと田部は車に向かってゆっくりと歩きながら、一縷の望みを抱いて田部に話し掛けた。

「田部さん、俺は華を捜したいんだ。あんたは俺に協力してくれるよな……」

 田部は、ツグオを少し離れた地方の村に連れて行くつもりだと説明する。その村には親に捨てられた孤児たちが住んでおり、シスターが街から貧困の子供らを集めて育てているのだと。

「政府がしないことをシスターはやっている。立派じゃないですか。俺は感銘を受けてシスターに協力しているんです。今では、この国で信用できるのは、シスターだけになってしまったんだ」と田部は語る。

 ツグオは田部が孤児だったのかと尋ねるが、田部は「いいえ、立派な両親に育てられましたよ」と答える。しかし、彼は家を出て一人で生きる道を選んだようだ。

「過去に執着し過ぎると、邪心に惑わされるんだな」とツグオは言うが、田部は「邪心とは侵害ですね。清らかな心と言って欲しいな」と微笑むのだった。

 ツグオは覚悟を決め、「とにかく、俺は逃げられないって事なんだろ。じゃあ、その村へ行こうじゃないか。「多分、シスターが待ってるんだろうな」と言い、田部と行くことを決める。

***

 その頃、キイノは西芝の家を出て、高台にある公園に来ていた。周囲には人影がなく、キイノはベンチに腰を曲げて座っていた。淡い茶のスカーフを頭に被り、人目を避けるようにしている。しかし、そのスカーフの端が風に揺れる様子には意味があるように思えた。

 そこへ、イチロが力強く歩み寄り、キイノの前で立ち止まる。二人は顔を見合わせ微笑み、イチロはキイノの隣に座った。

「全部、思い出したんだな」
「うん、自分がキイノだったと思い出した途端、全部の記憶が蘇ったの」
「気持ちの整理は出来たのか?」
「……何となく、ね。でも、まだ朦朧として、変な感じなのよ」

 イチロは怒りを露わにし、過去の出来事を話し始めた。キイノの誘拐や魔族による操作について。しかし、キイノは恨みを持たず、蓮に育てられた記憶を大切に感じていた。

「どうして急に失ってた記憶が蘇ったのかしら」とキイノは考え込む。彼女は、林檎屋敷で自分がある程度の自由を与えられていたことを感じていた。

 突然、キイノは何かに怯え、立ち上がって空を見上げた。
「助けて、キイノ……」という声が聞こえ、彼女は動揺する。イチロも不安に駆られたが、何も見えず、何も聞こえなかった。

「しっかりしろよ。もう、楓は魔族から解放されたんだ」とイチロは彼女をなだめようとするが、キイノの不安は消えない。

『助けて、ツグオ……助けて、キイノ……助けて、スミレ……』

 それは弱々しい声だった。キイノは、はっと立ち上がり空を見上げると、何かを探すようにキョロキョロする。イチロも立ち上がって辺りを見回したが、ゆるやかな風が流れて行くだけだった。
 立ち竦んだまま、キイノはスカーフ越しに両手で耳をふさいで震えていた。イチロは、分からない恐怖に支配され、彼女に触れる事すら出来ない。

「な、急に、どうしたんだ。楓……」
「あの鬼の声が聞こえたの。いつもは上から目線で意地悪な事ばかり言うくせに、今は私に助けを求めて来たの。私、あのコの所へ行かなきゃ……」
「はぁ、空耳だよ。俺には何も聴こえない。しっかりしろよ。もう、楓は魔族から解放されたんだ。魔族の事は忘れるんだ」
「でも、あのコが助けを求めてるのに……!」

「現実だけ見ろよ。現実とは、お前の目の前にいる俺だ、楓……」
「私……楓なんかじゃない!!」
「お前は楓だよ。楓なんだ!」
「全部、思い出したの、長井君なら分かってくれるはず……私、長井君に会いたい!」
「冗談じゃない。何が長井だよ。いい加減にしないか、楓!」

 イチロはキイノを二人の間に緊張が走り、イチロはキイノの肩を掴んで揺さぶる。スカーフがハラリと落ち、確かに火傷痕はあるが、キイノの刺すよう目には涙と怒りが浮かんでいた。
 イチロが一瞬目を逸らした、その隙にキイノは走り出した。あの幼い頃のように、この坂を駆けて行けば楽しいことが待っていると……きっと、そんな気持ちで坂を下っていたあの時のように……。

***