2011- 2012 のメトロポリタン歌劇場のシーズンのライブ・ビューイングです。
この映像を見ていましたら、この年も忙しい時だったのですが、このあたりの年になると結構いろんな演目を見に行っていたのだなあと思いました。
やはりその中でこのオペラを是が非でも見にいきたいというオペラではなかったのですね。きっと。
予告編は確かに見たことはあります。
現代の作曲家が作ったものというところで、ちょっと躊躇するものがあったのかもしれません。何しろオペラ自体が長いのでライブ・ビューイングであっても1日が費やされてしまいますし、その頃はまだ常勤でしたから、勤めがない土曜か日曜にしか見に行けなかったのですから。
というわけでずっと心残りではあったのです。
こういった演目は、あまり頻繁に演奏されるものではないので、滅多にないチャンスを外してしまうと、今度はいつになるかわからないからです。
この夏のアンコール上映の中に入っていました。
この8月17、18日の2日間だけです。
というわけで昨日行ってきたわけです。
事前のこのオペラに対する知識はなにもない状態でした。
「ミニマムミュージック」という言葉が、開幕前に作曲家とMET の総裁との話の中で出てきました。今年度のシーズンの《アクナーテン》の時もこの言葉が出ていたように思います。
ですから、漠然とした感じではありますが、あんな感じなのだろうなというイメージは持っていました。
本当は、METの上演も、作曲の順番も《サティアグラハ》が先で、そのあとが《アクナーテン》の順番なのですね。
作曲家が同じ方であるということも頭に入っていませんでしたが、まず最初に出てきた音の感じが、「これはどこかで聴いたなあ」というものだったのです。曲が進んでいくと同時に、「ミニマムミュージック」だからかな……と思っていました。
あの《アクナーテン》の印象的な声と全体を覆っていた雰囲気が浮かんできて、もしかすると同じ作曲家?と遅ればせながら気がついた次第です。
インタビューにも2回、そしてカーテンコールにも出ていらっしゃって、本当に幸せそうな表情でした。
自分の作品がMET のような大劇場で形になる。しかもステージも演出も大掛かりなもので目の前で演奏されるのですから。
このミニマムミュージックというあり方は、独特な雰囲気を創り出しているとは思っていましたが、《アクナーテン》の時はちょうど半分 「神」のような存在である「王」の存在を表す不思議な感覚とよく合っていると感じたのですが、今回は「ガンジー」でした。
ガンジーが、過去、現在、未来 という時間にどう変化していったかという感じなのでしょうか、歌詞で内容を表すのではなく、この場合の歌詞はサンスクリット語の音の感じであって内容ではないとのこと。
このオペラの内容やあらすじではなくヒンドゥー教の聖典の言葉とのこと。
サンスクリット語で、繰り返し同じ音程やリズムが出てくるというところは、実は「お経」を読む感じと似ているような気がしました。
何か人間離れした不思議な世界が作り出されることは確かです。
そんな中で今回も《アクナーテン》でも感じたのですが、視覚的な要素が大きいということなのです。
この《サティアグラハ》は12人の集団の方が、様々なパフォーマンスをして、音の単調さを視覚的に支える場面が見られ、このオペラを音声だけで聴いたらどうなるのかなとちょっと思いました。
このおオペラの場合、視覚的な要素は不可欠のように思うのです。
連日の暑さの中すうっといつのまにか目が閉じそうになることがあったので……
実は「ガンジー」の、このオペラを見ながら、違う想念が浮かんでいたのです。
「もしかすると、このガンジーが主人公のオペラはインドでは上演されないだろうな」ということなのです。
かなり前ですが、実際にインドへ行った時、ムンバイにガンジーの記念館のようなところへ行ったのですが、いく道々その旅についてくださっていた (この時は私と娘に、ガイドさんが1人ついて南インドを回る旅だったのです。その旅の終点がムンバイだったのです。)方が、こういいました。
「インド人はガンジーが好きではないのです。だから、きっと中にいるのは外国人ばかりだと思います。特に日本人はガンジーが好きですね……」
ちょっとびっくりしました。
もちろん何故かと訊きましたところ、「パキスタンを作ったという過ちを犯したから 」とのことでした。
折しもパキスタンが、核実験をして、核保有国の仲間入りをした頃のことだったからでしょうか。
その言葉に、「物事は、中から見るのと、外から見るのでは全く違う様相を見せるのだな」と当たり前のようなことを感じたのです。
実は、カーテンコールの時の皆様の幸せそうなお顔を見ていて、その時のムンバイの情景が浮かんできていたのです。
オペラとは関係がないのですけれど………