下宿は大学の世話で神戸の市電(1971年に全線廃止)の石屋川近くに決めました。下宿のおばさんは長屋風の借家の住人で、1階で下着とたばこを売る
小さな店を営んでいました。おばさんとお姑さんが一緒に店の隣部屋4畳半で生活していました。娘さんは幼稚園の先生でしたが、同居はしていません
でした。おばさんはご主人が京大の理学部卒だったことをいつも自慢されていました。ご主人が戦死され、生活のため、借家なのに2階に学生を下宿させて
いました。私の部屋は3畳 でしたが 押入れがあったのでどうにか生活できました。隣の部屋の方は医学部の1年先輩のTHさんでした。先輩は偶然にも
同郷で高松一高出身でした。先輩は九州工大卒業後 神戸製鋼に就職したのち、医者になるため教養から医学部に入学されました。当時でも専門課程から
医学部に入る方法はあったと思いますが。 私たちの同期にはこのような学生はいませんでした。1年先輩のMYさんも神戸大学理学部卒業後医学部に入った
方です。入学式の翌日風邪で高熱になり、不安 でした。たしか下宿の近くの医院にで診てもらった。今思えば4月上旬はまだ寒いときもあるのに、それの
対応が出来ていなかったためと思います。カリキュラム の説明会には父が出席してくれた。当初は友人もいなくクラブにも入っていなかったので暇を持て
余していた。それゆえ夕方早く銭湯に行っていた。その時間帯は お年寄りばかりでした。当時月2万円の仕送りをしてもらっていた。下宿代は朝夕の賄付
きで1万円でした。朝食は食パン2枚とゆで卵1個と紅茶でした。パンが のどにつかえて苦労しました。昼食は学生食堂で定食にしていました。定食は洋風
が多く、ごはんは、茶わんやどんぶりでなく皿で出てきました。無理をして ホークとナイフで食べました。休みの時は一般食堂で食事をすることも
ありました。酢豚はそれまで食べたことがなく、とても美味しいと思いました。食事の事では 恥ずかしい思いをしたことがあります。1年の春休みの
テニス部の合宿の中、皆でレストランに入った時、私はスパゲティーとライスを注文した。その際先輩から後藤君は主食を二つも注文するのかねと言われ、
赤面しました。暇ですので講義はすべて出席しました。経済学、社会学などはただ聞くのみでしたが、科学概論の湯浅先生の講義はなんとなくアカデミック
に感じ、興味深く聞きました。生物学 植物学の坪先生の講義は遺伝学の講義で興味深かった。それまで大学教授に直接接したことがなかったので、学者の
雰囲気のある先生は私には刺激的でした。私の父の友人で父と同じく東京農業専門学校から京都大学に行き、香川大学農学部の教授をされていた人以外
私の周りに学者はいませんでした。父が主基高校の教師時代の校長先生は学者ではないが、私にとって初めて接する学者風の方でした。物理学の実習では
高電圧を扱う実験があり、ブラウン管には触れるなとの注意を受けていたにもかかわらず、触れかかり、強烈な刺激を受けた。教養時代は指導教官がいて、
一人の教官に各学部の学生10-20人が属していた。我々のグループはほとんど活動はありませんでした。化学の講義は教科書が英語版で苦労した。語学の
講義は英語、ドイツ語とラテン語でした。語学の講義は高校の延長のようであまり興味がわかなかった。一番腹が立ったのはドイツ語の教師が、君らの学年
の医学部の学生は入試の成績が、他の学部より出来が悪いと罵倒(少なくとも私にはそうとれた)したことだ。その際 私は 入学させたなら教育 指導
するのがあなたたち教官の役目でしょうと発言したかったが、躊躇しました。おそらく入学時の学生のレベルは前後の学年に比し、劣っていたのは事実と
思われます。しかし70名前後の同級生は各々卒業後の進路はそれぞれ異なりますが、皆それなりの仕事をされていて、格別他の学年に比し劣っていないと
思います。下宿のTH先輩と一緒だった数か月は夜近くを数キロ、ランニングもしました。また先輩の紹介で中学生の家庭教師(生徒に私の下宿に来て
もらって)もしました。しかし人との接し方が下手で、中学生は私に怒られてばかりと思われ、数か月で辞められました。その後先輩と家庭教師引き受け
ますとのビラを貼りましたが、全く問い合わせはありませんでした。私が帰省し、また神戸に戻る時、母親は何時も家の前の道路に出て 私を見送って
くれました。駅近くまでのは直線で200mあり、どうも私がそこを曲がるまで道路に立っていました。当時、私はそれを煩わしく思っていました。最近
息子の門出に際し、母親が、新幹線のホームで見送る姿を時たま見かけます。今ならその光景を、微笑ましく見ています。1年生の時5月の連休を今か
今かと待つような状態でした。1年の夏休みは何をしたか全く記憶に残っていません。当時 東京の大学に行ったものは 大多数の人が数か月しか経って
いないのに、関東弁で話す様になっていました。これを聞くと鳥肌がたった事を覚えています。このような弱虫な男ですが、故郷を離れ、学生生活を続け
られたのも、今でもそうですが、大学は関東か、関西に行くのが当たり前だったからです。
教養1年の冬 同級生のKF君にテニス部に入りませんかと誘われた。1年の終わりの春、岡山であった合宿から入部することになりました。運動部
と言っても全学のクラブではなく医学部のクラブです。全学のクラブはとても厳しく勉学と両立が大変です。それゆえ何人かは教養学部時代全学のクラブに
入っていても、専門課程になると医学部のクラブに変わっていたようです。どの大学の医学部も色々なクラブがありました。体も小さく 運動神経も
鈍かったが、どうにか退部する事なく継続出来ました。試合に またエキビジションにも出ることがなく終わりました。特に学部1年の時は解剖の実習が
始まり大変で、クラブを辞めたいと思うこともありました。普通 学部3年生がクラブをリードする立場になります。私はマネージャーを引き受けることに
なりました。試合には出られませんが、対外試合は同行する必要があり、大変でした。マネージャーは裏方さんで 自分の時間が割かれるようで情けなく
思った事もありました。恒例の事ですが、お金集めで ダンスパーティーも企画する必要がありました。私がマネージャーだったので中心的役割を果たす
必要があった。社交的でない私が どうこなしたか 今でも不思議です。おそらく仲間 先輩のヘルプがあって出来たのではと思っています。私は元来
頑張り屋なので、短距離はだめですが、長距離は人並みでした。医学部内の駅伝大会ではテニス部の2部チームで参加しました。その際 急にメンバーが
足りなく私が2回走りました。また全学の駅伝大会には医学部テニス部の一員として参加し、確か追い越されずに、二人ほど追い越したこともありました。
おかげで 今もどうにかテニスを継続出来ているので 友人には感謝しています。当時 学生の間ではダンスが流行っていました。私も少し習いに行き
ましたが、すぐ辞めました。主催したダンスパーティーでもただ傍観していただけで、他のダンスパーティーに参加せずに終わりました。教養2年の時
下宿の娘さんが家に帰ってくるので、下宿を出なければなりませんでした。急遽 受験の時お世話になった従妹の家に居候することになった。その家には
従妹、主人、息子さんと娘さんがいました。その娘さんは高校生でしたが、私に将来はどんな医者になるのと聞かれた。その際 開業医なんかにならない
よと答えていた。医学部卒業生にとって、大学教授、病院長、大病院の幹部とともに開業医が王道であることを 当時の私は理解していなかった。いつ
までも親類にお世話になるのは心苦しく、数か月後 学生課と通じて須磨の月見山に下宿を見つけました。
大学入学当初から 母に康生 早く車の免許をと言われていたが、怖がりで すぐには自動車学校には行かなかった。当時は車を持つ家は限
られていたし、私の両親も教師で裕福ではなくもちろん家に車はなかった。その頃でも同級生の数人は自家用車で通学していた。いつものように、家が車
を買うなら、免許とりますと母の車の購入を願った。自動車学校は塩屋にありました。皆も同じように感じたと思いますが、自動車学校の教官はとても怖
かった。学生でありながら、運転免許のための学科試験には苦労した。1回でパス出来るか不安であったが、どうにか合格できた。約束通り車を買って
もらった。車種は一番安いパブリカだった。夏休みには 用事がないのに高松市内などをドライブした。サイドブレーキをしたまま運転するなど運転の腕
は最低だった。いくら何でも下宿先に車をおける身分ではないことは分かっていたので、車は家に置いていた。やがて父が運転免許を取り、車で通勤する
ようになり、休暇で帰省しても運転できなくなった。また親友のKN君が運転中老女を撥ねるようなことがあり、敢えて 父に車を借りて乗る気にはなれ
なかった。それとともに面倒がって、車の運転免許の更新はしなかった。以後シカゴに行くまでは車とは縁がなかった。さすがシカゴでは車がなければ、
生活が不便で国際免許をとった。この時にも親友のMK先生の助けがあった。帰国後出雲市ではホンダのシビックを買い短い距離だが車で通勤した。
テニス部に入る前はぶらぶらしていた。当時モルモン教が布教を兼ねて英会話を教えるとの宣伝に心が惹かれましたが、門をたたく勇気はありません
でした。教養1年生の時は友人もいなく 麻雀、パチンコもしませんでした。1-2回ビリアードアイススケートに連れて行ってもらった位です。大阪出身
の同級生の高校時代、浪人時代の話は私とはあまりにもかけ離れており 少々戸惑いました。我々の時代 教養の2年間は全く専門課程の講義はなく、
本当に高校の延長でした。
3年目からは基礎医学の勉強が始まりました。大変だったのは、人体解剖学の実習と骨 臓器の名前をラテン語でも覚えることです。教養時代
テニス部の先輩に解剖の実習現場を見せてもらった。その際のホルマリンの臭いとTischのご遺体にはショックを受けた。医学教育で 重要であることは
理解していましたが、私が礼節をわきまえて実習をやり遂げたか否か疑問が残ります。仲間と一緒だったので 大変な実習も乗り越えることが出来た。
組織の実習では顕微鏡所見をスケッチするのが苦手でした。私の場合 顕微鏡で見たものを書くのではなく、上手く書いている仲間のスケッチを真似て
書いていました。恥ずかしいかなそれ以外の 薬理学、生化学 法医学などの実習は全く記憶に残っていません。しかし現職の教授が亡くなられたときは
病理解剖が学生にも公開されたことは覚えています。生理学の講義は印象に残っています。生理学には二つの講座があり、どちらの教授も慶応大学出身
でした。当時我々の大学の教授の過半数は京都大学出身でしたので少し異例でした。第一生理学の教授は岡本先生で血液線溶系が専門で、第二生理学の
教授は須田先生で神経科学が専門でした。二人の先生は有能な学者であるとともに 所謂 慶應ボーイでカッコ良い方でした。岡本先生のパイプ姿、須田
先生のえんじ色のブレザーは印象深く残っています。岡本先生の講義は主に線溶系の最先端の研究内容で、須田先生はサイバネティックスの立場からの講義
でした。先生らは一般生理学の講義はほぼせず戸惑いました。大学生はそのような事は自習したらとのお考えだったと思いますが、凡庸な私にとっては
少々きつかった。私もある意味 クソ真面目ゆえ、学生時代第一生理学以外は追試を受けたことはありませんでした。第一生理学の追試験は3人一緒の
口頭試問でした。その際教授曰く 君たち自分が駄目だと(無能)思うなら今からでも遅くないので医学部を諦め方向転換しなさいと言われた。非常に
落胆し、追試の結果発表までの間、嫌だが 教師にでもなろうかと考えていた。しかし追試の結果は幸いOKでした。理解は困難でしたが、
サイバネティックスは興味ある分野で、基礎工学の本をシリーズで購入もしたが、“積読“になったのみです。しかしなんとなくそのような学問に夢を抱いて
いましたが、現実のものにすることは出来ませんでした。ベトナム戦争反対などと言って三宮でデモにも参加しました。クラスの有志と一緒に国会議事堂
周辺のデモにも参加したことがあります。しかし 運動の本質は分かっていなく、平凡なノンポリ学生でした。その頃学園闘争(インターン闘争、
ベトナム反戦)があり、ストライキと称して、授業、試験ボイコットが頻回にあった。我々の大学でも世を憂い真剣に物事を考えていた方もいたと思い
たいが、学生集会で ストライキがいとも簡単に決議されたのは、学生の怠け心、付和雷同からだと思っています。
基礎医学もまた臨床医学の教科書も日本語で良いものは当時少なかった。生化学、生理学、内科学などの洋書は購入しましたが、日本語の簡単な
本に頼ることが多かった。当時一部の医学書には海賊版があり、我々学生はそれらを買っていた。知的所有権に関しては 当時 日本はまだ三流国
だったのだ。学3になると内科、外科学の臨床講義が始まりました。臨床講義は学3,4年の合同でした。看護師は戴帽式が以前からありましたが、
医学部で臨床の勉強を開始するにあたって、白衣授与式が始まったのは遅まきながら2006年からで、我々の時代ではありませんでした。講堂は階段状で、
一番下のフロアで教授が講義し、患者様がベッドで運び込まれ一種独特の雰囲気がありました。また臨床ではポリクリがあり、教授の外来診察の見学並びに
病棟で一人の患者を担当しました。現在とは異なり、病棟も一つの科で1週間の配属で、あくまでも見学中心で、レポート作成が主でした。臨床実習とは
言えない状態でした。記憶に残っているのは、胸部の聴打診、腹部触診、眼底検査、鼓膜所見などは不器用ゆえ 苦労したことです。現在の医療でも
レントゲン、エコーの進歩はありますが、やはり 理学的所見をしっかり取ることが診療の基本です。今でも思うのですが、当時の教授の先生たちは
弁舌も さわやかで、見た目もカッコ良く、貫禄もあったと思います。同級生も何人かは教授になってはおられますが、以前の教授に比べると少し見劣りが
するようにも思われます。現在の学生から見れば、今の教授の方たちも貫禄があるように見えるのでしょうか?。学生時代の糖尿病の講義で病気の分類が
さっぱり理解できなかった記憶があります。今でも個々の患者さんを診て、糖尿病の分類を決める場合も困難を感ずる。おそらく教官の講義にもファジーな
ところがあったのではないかと思われます。
教養2年の後半から下宿は山陽電車月見山駅近くの一般家庭に下宿し、以後研修医の1年目の秋まで(実質は学生時代のみ)継続しました。下宿の
おばさんの主人は弁護士でしたが、急逝され数年前から学生を下宿させていました。2階には3つ部屋があり、私を含め3人の学生が下宿していました。
他のメンバーの入れ替わりはありましたが、皆神戸商大の学生でした。部屋は3,8畳の畳の間と4.5畳の洋間でした。最初は8畳の部屋でしたが、2年後
一人が卒業し、待望の洋間に移れました。洋間はかって息子さんの部屋で、ベランダがあり、とても見晴らしが良いところでした。さらに机、本箱も
備えられており、、ベッドもありその下は収納できるようになっていました。冬は皆でホーム炬燵にあたり雑談したり 煙草を吸っていました。下宿は
賄付きで助かりました。食事は格別 美味しいとは思いませんでしたが、茄子の漬物はとても美味しかった。風呂は歩いて5分くらいの所にあった銭湯に
行っていました。洗濯は2階のそとにある水場でしました。冬の寒い際も 手袋も使わず素手で洗濯していた。湯沸かしポットは持っており紅茶などは
飲んでいた。夜はよく深夜放送を聞いていた。その頃でもネクタイをすることも時々あり、ワイシャツは洗濯にだしていた。私は服装には気を遣うタイプ
ですが、持っていたブレザーは数着だった。大学入学時は上は所謂学生服で、下は色違いの灰色のズボンを履いていた。教養の後半からブレザーを着る
ようになった。リーガルの臙脂色の革靴をいつも磨いて履くような学生でした。中高時代はテレビっ子でしたが、大学生になってからは、休暇中実家で過
ごす時以外はテレビは見ることが出来ませんでした。私と3年間ほど同じ下宿にいた商大生の勉強姿には驚かされました。下宿ではいつも机に向かって
いました。彼は公認会計士を目標にしていて、卒業1年後に合格されました。
学部1年のころ、下宿での勉強は単調ゆえ、近くの天理教の図書館でも勉強した。そこに浪人生も来ており、そのうちの一人の素敵な女性に話し
かけたり、ラブレターも書きましたが 相手にしてもらえませんでした。どうも私が読書家でないのを見抜かれ、それが一因かとも思われた。そこで私
には珍しく読書に努めました。しかし長続きはしませんでした。後日 彼女から無礼な手紙を書きましたと謝りの手紙が来ました、調子に乗って再度手紙
を書きましたが、なしのつぶてでした。また1年下の医学部の子に憧れましたが、相手にしてもらえませんでした。学生時代 時どきパチンコに行きました。
その頃は 玉を1個づつ入れるタイプで、チューリップが開く台がで始めた時でした。1回で使うお金はせいぜい五百円でした。たまに勝つと 喜んで本を
買いました。西代にストリップ劇場があり、20歳の頃初めて行った。幸いクセにはならなかった。学年が進むにつれ少しは友人も出来た。テニス部のHM君
はカブトムシ(フォルクスワーゲン)で自宅から通学していた。教養2年の時 一度彼の家を訪問し、一泊もした。彼は神戸の第二内科の大学院に入り、
私と似たようなインスリン分泌の研究をしていた。当時研究室は隣にあったが、ある意味お互いライバルで、その頃はほぼ交流がなかった。今でも友人と
しての関係は継続できている。テニス部のHS君も友人の一人でした。彼はテニスは上手ですが、短気なところが、あり勝負強くなかった。人は良いのだが、
おべんちゃらが言えなく 患者さんの対応も下手なようである(これは彼をアルバイトで雇った同級生の弁)。かくいう私も患者さんの対応が良くなく、
若い頃は患者さんを怒らせることもあった。今では少しマシになったが、患者さんとのコミュニケーションには自信がありません。彼はマツダのファミリア
に乗っていた。彼の三田の家に一泊した覚えがある。彼とは卒業後一度もあったことがなく、年賀状を交換するのみでした。彼は令和5年に亡くなったとの
こと。テニス部のKF君は私をテニス部に誘ってくれは人です。彼はリーダーシップの取れるタイプでテニス部のキャプテンにもなった。卒業後は年賀状の
やり取り位です。彼は努力され、地方大学の産婦人科の教授になった。もう一人のOZ君は大阪出身で祖父は大阪府知事だったとの事。彼は俺は子供の時から
ステーキを食べていたから、筋肉隆々だと自慢していた。最近聞いたのだが、彼は子供の時結核で 両親が心配し、栄養をつけるため肉を食べさせてくれた
そうだ。彼とは 他の友人らとともに会食もしている。彼は 学生時代私から見入ると、注意散漫なところがあるように思われた。しかし日赤の院長
になったので、私に見る目がなかったのでしょうか。KF君が 私とOZ君を福井の実家に招待し、永平寺、東尋坊を案内してくれました。学生時代医学部
以外では友人はKN君のみでした。確か 3−4年生の頃彼を訪れ、福岡に行きました。その際 阿蘇山長崎にも行った。我々の医学部同期は80名はいた。
そのうち数名の方は 在日韓国人でした。一人は本名を名乗っていましたが、他の方は日本姓でした。在日韓国人の両親は子供将来を考え、医学部に進ま
せる方が多かったのかと思っています。
いつ頃か、またどの様な経過で親しくなったか、覚えていませんが、MK君と友達になった。友人というより、私の師匠と言った方が良いかとも
思っています。彼は教養時代本学の剣道部に入っていたこと、また学番が離れていたので面識はなかった。彼とYK君と一緒に学3年の頃から基礎の大学
院生(生理第二講座)、薬理の女性の技官さんと少しロシア語の勉強をした。またMK君とは日ソ協会でも一緒にロシア語の勉強をした。学4年生の夏休み
日ソ協会が主催するモスクワ旅行もMK君と一緒に参加した。彼曰く 俺たちは卒業すれば、アメリカには留学で行けるだろうが、ソ連に行けるチャンスは
ないのではと言っていた。そのようなこともあり、参加を決めた。横浜からナホトカ?ウラジオストクまで船で、そこから列車でハバロフスクに。
ハバロフスクからモスクワまではイリューシンで。その飛行機は空調が良くなく上空まではとても暑かった記憶に残っている。少しはロシア語勉強したので、
列車内で数回片言で話したが、会話にはならなかった。旅行は1週間で費用は10万円でした。費用の一部は自分で稼がねば、と思い、下宿の仲間のバイトに
付き合った。高所は怖いし、力がないので大変でしたが、2万円ほどは稼いだか。モスクワでは一人で映画館にも行った。モスクワの地下鉄はなぜかとても
深いところに作られていた。また喫茶店に行った時 ちょっと変わった日本人が多いなと思った。しかしすぐ彼らがモンゴル系の人達だと理解した。赤の
広場、モスクア大学、エルミタージュ美術館にも行った。さらにラトビアにも行った。MK君には何かにつけて助けてもらった。医師国家試験が大阪であった
時も、前日彼の宝塚の家で泊めてもらった。それ以後も 大学院入試の前夜 彼の新婚家庭で泊めてもらった。大学院終了後、留学に際しても 彼の後任
として推薦してもらった。さらに60歳前にしてうつになった際も彼の助けがあった。このように私の人生の転機に相談に乗ってくれた。
我々の大学では学部4年は臨床医学を学ぶのだが、数か月間基礎配属といって基礎の講座で研究の真似事をするようなシステムがあった。しかし当時
全国の学園闘争の最盛期で、我々医学部も青医連運動(インターン制反対、医局講座制解体)が盛んでわが医学部も頻繁に授業ボイコットをしていた。
そのため 基礎配属は中止になった。確か6月から8月までボイコットが続いた。ボイコット中でもクラス会は開催していて私は世話役をした??。あまり
にも参加者が少なく、嫌になっり、モスクワ旅行のためその役目は投げ出した。9月から講義が再開され、1月からは卒業試験の毎日だった。幸い卒業試験
ではどの科目も落とすことはなかった。その頃下宿のおばさんがもう食事は出せないと言われ、外食することになった。外食は 費用がかさむし、一人で
寂しい思いをした。私の人生で一人で夕食するのはこの数か月と研修医の1年間それとTA日赤勤務終わる2か月間のみでした。ただし76歳の終わりごろ
令和5年11月15日から家内グループホームに入居してもらい とうとう食事は一人になったが。学生時代 音楽喫茶とか、雰囲気のいい喫茶店に行くこと
自体カッコいいと思っていた。しかし一緒に行くような彼女もいなく喫茶店に行くようなことはほぼ無かった。卒業前ごろ 下宿の近くの喫茶店のマスター
がカッコよく、バイトの女学生も可愛かったので、よく通った。しかしお金のこともあり、長続きはしなかった。入学した頃は毎月の仕送りは2万円でした
が卒業するころは4万円でした。その額はおそらく母親の給料の8割位だったと思います。大阪万博があったのは学部4年の時で、見には行きましたが、何も
記憶には残っていません。卒業試験に際しては仲間と一緒に勉強することもありました。私はくそ真面目故 皆と一緒に勉強する前は少し物知りでした。
ある友人は日ごろ学校の勉強以外の事に熱心で、試験用の知識は貧弱であったが、数日で私の知識を凌駕しました。卒業試験後から国家試験むけの準備
をした。1か月間ほどであったが、その間医師国家試験の過去問に取り掛かった。それらの問題は半分くらいしか解けず、どうなることかと不安であった。
しかし当日の問題はとても簡単だった。午後からの問題が終わった際、急に午前中の解答の印を入れる所を間違えたのではと心配になった。そこで試験管
に私の午前中の解答用紙を見せてもらえないかとお願いした。当たり前のことだが、NOとの返事であった。口頭試問、面接も無事に終わった。しかし解答
記入が間違っていたのではと、大いに気を揉んだ。合格発表は1か月後ゆえ帰省しても良かったのだが、もし記入ミスで不合格なら世間に顔向けが出来ない
(当時の医師国家試験の合格率は90%以上)と思いその間は下宿で過ごした。どのように過ごしたか記憶にないが、テニス部のKF君と何回かその期間明石の
公園でテニスをした。学生時代KF君の明石の下宿に友達と時たま遊びに行った。その際下宿なのに食事まで出してもらうこともあった。後で知ったことだが、
彼の親類だったそうだ。学生時代一度数人の友人を滝宮に招待した。その際 母がケチって風呂の湯が少なかったのではないかと心配したものです。しかし
最近彼らから酒の席で 学生時代君のお母さんには 以前に世話になったと言ってくれて安堵した。新聞に合格者の氏名は載るが、前日新聞社に問い合わせる
と教えてくれるので、神戸新聞社に電話で問い合わせた。何度も後藤康生間違いありませんかと聞いたものです。