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どん底と言われた私の人生 生い立ち・11 「小学校 人生初の不登校」
理由はケガだったが
初めての不登校期間があった。
たしか小学6年の時、
水風船戦争が流行っていて
年下の男子と6年女子が戦ってたのだが、年下男子で友達弟が
ふざけて?石を投げたら
私の目に当たった。
目の前が真っ白になって
「あぁ…失明したかも…」
と血の気が引いたのを覚えてる
痛くて仕方なくて
目が開けられなくて怖くて
母が働いてる病院に行ったが
怪我した右目は真っ暗闇で
「あぁ…もう2度と見れないのかもな」
と怖くて仕方なかったのを覚えてる
しばらく学校は休み。
毎日、目薬をさして
視界が変わってく様を記憶している。
真っ暗闇だった世界は
少しずつ
緑色になりぼやけてて
少しずつ
透明のぼやぼやに変わって
最後には、
また、この世の中を
同じように見るまでに戻ったのだ。
しばらく眼帯をして
学校へ行っていたのか?は忘れたが
初めて感じた
友達との距離感。
自分だけが時が止まってるようでいて
皆の輪に入れない感じがして
ものすごく怖かった。
いつもいる場所から離れる怖さ。
あの時に体験していたから
不登校の子供の気持ちが、
色んな場面によってわかるのかもね。
自分の中では記憶に残る
人生初めての
身体の危機だった。
そんなこんなで小学6年生は、
恋愛と不登校体験と初めての挫折で終わり。
夢は
映画女優かタレント歌手になります!
となる発言で終わった。
振り返り…
長いけど
色んなことに気づきますね。
ひたすら健忘録含め続けます。
小学6年生の頃、人生で初めての
失敗・後悔・挫折を味わった。
大袈裟かもしれないが
これもまた私の心の小さな傷とシコリの、
でもとっても大切な経験という宝物。
保育園時代は、
常に主役をしていた私だったが
小学校にあがると
自分よりももっともっと人気のある子、
優れている子がいっぱいいた。
学芸会の演劇で
主役は、お姫様的な人ではなく
女王様だったのだが
何人も立候補者がいて
オーデションがあった。
練習を自分なりにした気がしたが
誰かと対面でするでもなく
1人で頑張ってたせいもあり
自信がなくて仕方なかった。
なんなら、
自信が持てるまで練習できなかった
というほうが正確かもしれない。
女王様役のオーデション当日、
意地悪な台詞を言うのだが…
私は、カンペを持って行ったのだった。
やる前から、なぜか
わかっていた事だった。
『正確に言えなかったとしてもカンペを見ずにチャレンジして、感情が乗ってる人が受かる。』
オーデション担当の先生が言ってたのかもしれないが、
わかっていたのに…
私は、カンペを見てやった。
、、、、、
想像通りの結果となった。
カンペを見ず、
少し途切れたりしながらも
情熱的に役になりきった友達2人が
女王様になったのだ。
悔しいという気持ちが出ないくらい、後悔だらけの出来事となった。
もっと練習しておけば良かった…
もっと感情込めたら良かった…
言葉が出なかろうと何も見ずにチャレンジしたら良かった…
後悔してもしきれない、
人生初めての大後悔。
そして、私がやったのは
セリフの少ない1月の精🧚。
自分の生まれ月だし
せめてもの救いは1月で良かったということ。
けれど、とってもそのあとは
羨ましい
という気持ちが
とても残る経験だった。
*******
あの時の私に言ってあげるとしたら
なんて言うだろう?
自分の人生を初めて自分で決めて、
変えていったのは
保育園を変えたいと言った時
もっと自意識が芽生え
人生を変える!と思ったのが
小学5年生の時だった。
「5年生から、積極的になろう!」
と思ってキャラ変したのだ。(笑)
忘れ物が多く正座させられ
泣いてばかりの私からの脱却。
ダサい自分から
いい感じの自分に変えたかった。
積極的な自分になって
明るく元気に過ごそう!
そんな事を思っての、キャラ変。
高校生デビュー、大学デビュー
ならぬ
小学5年デビュー。
グループ分けするから
人気者グループ。
元気っ子グループ。
たぶん1番
目立つグループにいたと思うし、
中心人物の5人くらいの1人だった。
その頃、同時に
1つ上の学年のサッカー部にいる
人気者のアイドルのように
キラキラ輝く先輩に恋をし
追っかけをはじめ…
その先輩を追っかけまわしていたら
自分もなんとなく…
先輩たちにまで有名になってしまった。
自分の担任の先生まで
私がその先輩を好きだと知っていたし
誰もが知ってるほど
ゾッコンラブの恋。
恋をして
変わったのかもしれない。
そこから私の追っかけ人生。
恋愛大好きな人生がスタートするのだった。
恋は活力。
好きな人の何かで一喜一憂。
嬉しくなったり
苦しくなったり
思い出して切なくなって
たまに幸せもあったりして
私にとったら
恋愛は人生!
と言っていいほど
恋愛一色の
小学5年生を過ごした。
先輩が卒業するまで
あの時期が、
小学生時代の1番の青春だ。
恋愛依存やメンヘラ臭はまだないが(笑)
恋愛のパワーはすごい。
別に、両思いにならなくたっていい。
恋できてたら元気でいれる。
リアルヒューマンじゃなくとも
本当のアイドルでも良いかもしれない。
推し活はとっても大事。
活力になるのだから。
人生を変えるには
コレでいく!
という気持ちだけで
変われるものかもしれない。
自分の過去から思い出した。
やじゅう事件・千昌夫さん事件
この2つが自己肯定感が低くなっていた要因とわかった。
今でも覚えてるということは、
よっぽど傷ついたのに
その時、自分の傷に
気づけていなかった。
トゲがささってるような
胸がギューッとなるような気持ち
それだけが
今もすぐ思い出せるくらい
残っているのに。
もしもあなたの子供が
誰かに嫌な事を言われたら…
あなたはなんと言いますか?
私は
一緒にその子の文句を
とことん言いたい。
なんで
そんな事を言われなくちゃいけないの?
むかつく、ひどくね?
こんなに可愛くて
愛おしい存在なのに。
野獣なんかじゃない!可愛いよ!
今の私だったら
言えるけど
その時は言えなかったなぁ。
自分を守れなかったのだ。
*******
親からプチ虐待を受けていたせいか
どこか
「自分はこういう事を言われる存在なんだ。」
諦めるというよりは
そういう人物なのだと思って
ずっと
生きていたのかもしれない。
エンパス・HSP気質だから余計に
誰かに言われた
傷つく言葉が身に沁みて
それが自分なんだという認識で
ダウンロードされていたんだな…。
今の子供達も、繊細さんが多いから
同じような子いっぱいいるかもね。
いつでも、お母さんやお父さんや
先生
何かあったらすぐに
誰かに言えるような状態でいれて
言えなかったとしても
自分で自分を守り、
励まし、支えられる
それぞれ1人ずつが
そんな心であれば
人はみんな
自己肯定感を低くしずに
自分らしく生きていけるよね。
2024年3月に開校した、
半年間のあいのタネがっこうで
こういう事を子供に伝えたいし、
大人にも伝えていきたい。
1人ずつが
自分で自分を守れて信じて愛せていければ、溢れた気持ちでまた誰かを守れて信じて愛せていける。
そう、私は強く信じている。
私の人生を通してきづいた大切な事だし、皆に伝えなくちゃいけない事なんだと感じる。
"いじめ"とは、何を持って"いじめ"と言うのか?
相手にとったら
ちょっとした
"からかい"程度なんだろうけど…
本人にとったら
受け取り次第でそれは
"いじめ"になる。
わたし自身、
集団無視をされたり、
肉体に何か暴力されたり、
そういった類はなかったが…
今思えば
"嫌だったのに
嫌と言えなかった
嫌な記憶"
が、2つある。
それは、些細な事だったかもしれないけれど…
あの時の私にとったら
小さな傷・小さなシコリだった。
私の名字は、
泰山と書いて「ヤスヤマ」と読む。
あだ名は、
すーちゃん・りさちゃん
この2つが主だったが
男子に
「やじゅう」と呼ばれていた時がある。
その「やじゅう」は、
野獣の「やじゅう」だったんだと思う。
1人だけに言われてたのか
数名に言われていたのか
今では記憶から消してるのか覚えがないが
全男子に言われていたような記憶。
自分が野獣のように見えてるの?
野獣のように思われてるの?
とんでもない獣のような…
動物のような…
そんな自分だと言われてる気がして
苦しかった。
自分を守る術を知らず、
「うるさいなー」と言うものの
嫌な気持ちを封じ込めて耐えていた。
何かを言われても
平気なフリをする
そんな癖がこの時から
ついていたし、
きっとこの頃から
自己肯定感は、さらに
低くなっていたのだろう。
容姿に関しても
同じようなことがあった。
今は、切除してあるが
おでこの真ん中に黒子があったのだが
当時テレビで出ていた歌手の方で、
おでこの真ん中に大きな黒子があった人のお名前で
「千昌夫ー!」と言って
からかわれていた。
今なら、
有名人と同じなんてラッキーと言うが
当時の私は、コンプレックスで
とても恥ずかしくて屈辱的だった。
つづく
忘れ物ばかり毎日する小学3年時代は
4年生になって新しい友達ができることで
幕を閉じる。
この頃、ちょうど母親が
休んでいた仕事を再開することで
私は鍵っ子になり、
遊ぶ場所が変わったりしたせいか
新しい友達ができた。
メンタル面が変わったから
忘れ物しなくなったのかもしれない。
が、思い出して予想するに
母親のストレスが子供である私に
だいぶかかっていたのかも?と今は思う。
お金がそんなに余裕あるわけじゃないのに
飲み歩き、ギャンブルばかりする父のの傍ら
毎日家にいて内職している母。
相当のストレスがあったのか、
ある日・・・昼間だったと思うが
シャッター?を閉められ真っ暗は中
「一緒に死のう」と
包丁を持ち出されたことがあった。
どうやって回避したかも記憶にはないが
私にとって
忘れ物時代はもしかすると
母との関係にあったのかもと思うのだ。
あの頃、とても母が恐ろしかった。
常に見張られているようでいて、
常に怒られるのを恐れオドオドしていたし、
怒ると止めどないので叩かれたり、収まるのを
涙をこぼさないように堪えて我慢していた。
叩かれると
ものすごく痛かった。
泣いていると怒られるから
声を殺して涙をこぼしていた。
それでも怒られるから
涙を流さないようにも頑張っていた。
昭和の時代は平手打ちなんて
当たり前の時代だった気もするが
もしかすると、いっぱいされてたのかも・・・・
ひどい時は物を投げられたりもして
目にボンドの硬い入れ物が当たり
「失明したかも・・・」と思うことがあった。
優しいお母さんという人物を見ると
痛く羨ましかったし
「私も優しく愛されたい」と
無条件の愛情を強く欲していた気がする。
そう考えると、
小学校3年生までの
家での母との記憶がほぼない。
母が仕事復帰をし、鍵っ子になってから
友達と楽しく遊んでいることは思い出せるが
母が家に居て遊んでいたという
記憶が、
出てこない・・・・・。
あの頃、いったい家で何をしていたのだろう。
忘れ物をいっぱいしていた頃、
私は何をしていたのだろう。
思い出せない、思い出したくない記憶が
今年は少しずつ出てきて、
自己治癒という名の
インナーチャイルド的な自分を癒す作業と
過去の出来事の手放し・許しをしている。
そう、あの頃わたしはプチ虐待をされていたのだと思う。
もはや、プチではなかったかもしれない。
プチと自分で思い込んでいるだけかもしれない。
完全に、友達が転校していったことが原因ではない。
家庭での問題が、毎日続く忘れ物に現れていたのだと思う。
これは引きこもり不登校の専門で
カウンセリングをしてきた経験から
客観的に察する、おそらくこうであろう事であり
虐待支援をしている人の話を聞いて
胸がギュッとなってから
少しずつ紐解けてきたあの時代の記憶だ。
辛すぎて記憶から消えてる時間なんだろうと思う。
虐待サバイバーはそういったことがあるんだそうだが、
当時は辛くて記憶から消しているが
大人になって思い出すことがあるらしい。
だから今、少しずつ記憶が蘇っているから
これからも少しずつ思い出されていく時がくるのかもしれない。
だから強く思うし、伝えている。
お母さんが家にいるだけの毎日だと
ストレスが溜まって、子供にあたってしまう場合・・・
お母さんはパートでもなんでもいいから
家庭とは別の場所へ行く時間を作る方がいい。
自分の経験からしても
改めて、そう思えた。
母が仕事復帰したことで、
私の日常の、昼間の平穏と平和が
作られたのだから。
過去を記すことで、より経験談から
今後の親子関係の問題クリアに繋がる事例が
見えてくるものですね。
親子関係の解決の糸口を見つけるのが
得意だと思っていましたが
もしかするとただただ・・・
自分の経験から思う解決策を
言ってるだけなのかもしれないと
思えた今回の記録でした。
子供の代弁者でもあり、
あの時の母を楽にさせてあげる方法ともなるから
一緒に考える時間が、私にとっての過去の浄化でもあったのだろう。
たまにある親御さんからのご相談。
悩みを抱えたお母さんにとって、
このブログの記録が役立つこともあるかもしれない・・・
当事者くん当事者ちゃんが
同じ経験を経て、
今の私のように楽しく人生を生きてることを
知ってもらえたら嬉しいし
自分1人だけが悩んでいるのはないと知ってほしい。
というより、悩んでることというより
同じ体験・経験をした人がいるということを
知ってもらえたら
「自分だけがダメな子なんだ」
と、
思わずに済むのじゃないかなぁ?と思って
この人生記録を始めました。
そう、あなたは一人じゃないし
誰かも体験した辛いことを今体験してるのかも。
あの時に言ってあげるとしたら
私は何をいうかな?
「親以外に誰かに相談する場所を見つけよう」
なんだけれど、
親から危害を加えられる場合は
言えないだろうから
まずはそれを1人で抱えずに
「誰かに言える場を探そう」と
伝えるかもしれない。
私でもいいし、専門でやっている場所でもいい。
小杉沙織さんの無料LINE相談でもいいし、
歌舞伎にある駆け込み寺でもいいと思う。
自分にあった、自分の話を否定せずに
聞いてくれるような人を、
たった一人でもいいから見つけてみよう
そこからでいいから、やってみよう
あの時の自分にそう言うかな。
そして、その子の味方であれるよう
どうしたらいいか一緒に考えると思う。
そういう人と出会いたかったなと今では思う。
だからこそ、学校での毎日忘れ物も
何か子供のSOSサインかもしれないっていうことを
このブログを読んだ誰か1人でも
こどもからの出せない声に
気づくキッカケになればという思いを込めて
引き続き、人生記録がてら対処法などを載せていきます。
生い立ち日記だけでなく
対処法も載せてしまうとゴチャゴチャしそうだけれど
ひとまず一旦は、全てを記録してみます。
無事に楽しく平穏に保育園を卒園した私は
近所の小学校へ入学。
仲良しだったMちゃんとは学校は離れたが
それなり友達ができたり
仲良しちゃんもいたり、
楽しんで過ごしていた。
だが
小学校1・2・3年で次々と
仲良かった友達が転校をしていくことが続いた。
”別れ”を体験して、子供ながらに
寂しさを覚えたり、離れる不安を抱いていたと思う。
そうこうするうちに
小学3年生の頃に、毎日毎日
忘れ物をするようになっていた。
忘れないように気を付けているつもりだが
毎日のように何かしら忘れてしまう。
その度に怒られて、
しまいには見せしめかのように・・・
黒板のある前側、先生の横あたりに
正坐をさせられて
あまりに恥ずかしさと情けなさで
大粒の涙を流していた事を覚えている。
この頃から、自己肯定感の低い私が
出来上がっていたのかもしれない。
毎日何か忘れてしまう自分を
出来損ないの頭のおかしい子なんだと
卑下していたし
皆の前で、正坐させられるという現実が
恥ずかしくて恥ずかしてくてたまらなくて
泣いていることも恥ずかしいけれど
鼻水まで垂らして屈辱的だったように思う。
自己肯定感が低い私というよりは
”人から見られる自分”
が、どう見られているのか?を
とても気にし始めるきっかけが
ここにあったのかもしれない
と、記しながら気づけた。
インナーチャイルドを癒すセラピーで
対処したが
あの頃私がやって欲しかったことは
母に一緒に準備をして欲しいというよりか
どうやったら忘れないか?を
一緒に考えて欲しかったし、
やり方を教えて欲しかった。
ただただ「忘れないように」と言われても
あの頃の私には理解できなかったし、
直せなかったのだ。
もしかすると、発達系でいうなら
この頃からADHDっぽい出来事だったのかも。
でも、あの当時はそんな知識は
先生も親もない時代だから
”忘れっぽいやつ”なだけで
どうしようもない扱いだったのかもしれないな。
もしも、子供が忘れ物が続いてしまう場合は
⚫︎一緒に準備して練習する
⚫︎どうやったら忘れないか一緒に考える
もしくは、
⚫︎理屈っぽく新しいルールを教える
「明日の時間割を見て、明日の授業で必要な
教科書や物を前の日の○○の時間に準備をする。」
というように本人に合わせたルール設定をすると
覚えていけると思うから、
ぜひやってあげてほしい。
ただ「忘れないように」「準備しなさい」じゃ
伝わらなくて本人は全くと言っていいほど
理解できていないことが多い。
理由➕やり方→本人流のルール作りを促すか一緒に作ってあげる
(親が決めるのではなくて本人が自分で自分ルールを決めることが大事)
あと
一緒にやると良いこととして
⚫︎忘れ物を続けてしまう理由探し
してあげると良いのかも。
私の場合は、友達が連続でいなくなってしまって
遊び相手が居なくなったり寂しさを体験してるが
そのフォローを誰もしていないので
自分の中で、人生初めての
”寂しい感情”の対応ができてなくて
適応障害っぽいことが起きてたのかも?
と、今になっては思えます。
大人になるとわかるような出来事も
子供にとっては、初めてのいろんな体験・経験があるから
○○しなさい!なんで出来ないの?!
じゃなくて
理由も見てあげれると、
子供にとっては生きやすくなるのかもしれないね。
そんなこんなの保育園時代は
特に波瀾ではなかったのだ。
まだこの時代は
過去数年に渡り闇の中にいたような
「自己肯定感が低い私」
からは
程遠い場所にいた。
なぜなら、
保育園の同級生?の中でも
1番ひらがなが読めたりしたようで
とにかく、何かにつけて
主役をやらされていた。
目立つ存在だからとか、
主役級に光る容姿だから
ではなかったと自分では思うが
母曰く、
「誰よりも字が読めて、おしゃべりが得意だった。」
からだそうだ。
自分ではこの時の、
そこに対する記憶はほぼないが
写真に写っている私は
本当にいろんな劇で主役を
やっていた事が多かった。
その理由としては、
家のトイレやお風呂には
ひらがな表があって
いっつもひらがなを読んでいたからだと思う。
嫌々やらされていたのではなく、
それはそれは楽しく覚えていたように思うし、
絵本を読むのも好きだったからかもしれない。
こんな主役を演じていた私が
何年かして時を経て
いつからか
マイナス思考になり
自己肯定感が低くなって
引きこもっていくだなんて
親も私も思っていなかった。
あの時に、どう対処していたら
良かっただろう?等も
今後の人生記録で出てくるかもしれないですね。
というわけで、
まだまだいっぱい続きます(笑)
楽しかったり、
エッチだったりするw
保育園時代。
大きな出来事があった。
ある日、お調子者の私が
階段から転げ落ちてしまったのだ。
アパートの階段で遊んでいる時か、
階段の掃除をすると言って掃いていた時、
階段のたぶん1番上の方から
私は転げ落ちたのだ。
どうやって運ばれたかは覚えていない。
救急車ではなくて
誰かの
病院にいて
緑色のシートで視界を遮られて
手術をしているシーンが思い出させられる。
転げ落ちた時に、一緒に誰かが居たのか、
母が居たのかは不明だが、
たぶん父は働いていて、
母と一緒に病院に行ったように思う。
子供の体も頭も?柔らかいから
大事に至らなかったと後から聞いた。
縫い跡からするに、
頭の右側後ろと、右目の上あたりを
ざっくり深めに切ったようで縫っている。
きっと、転げていった時に階段の角?で
傷つけたのだろう。
骨折などもせず、
切った箇所が、目や頭の
良くない位置じゃなかったと
今では思う。
母にとっては、卵の時のしがみつき
エピソードの次に
階段転げ落ち話も良く出て来る話だった気がする。
もしかすると・・・・・・
何かに守られているかのように
いつもギリギリどうにか助かる。
そんなストーリー作りは、この頃の
卵時代・階段転げ落ち時代から
始まっていたのかなぁと感じる。
うむ。
自分で知らず知らずに、
大丈夫ストーリー作りをしていったのかもしれないね。
綴っていくことで、気づく色々がある。

