2011年3月11日、東日本大震災が発生した。
その年の年末、発表された今年の漢字は、「絆」だった。
震災の3週間後、大阪にある私の自宅が全焼した。
夫は仕事、長男は遊びに行き、次男と三男はサッカーの練習で、家に居たのは私1人だった。
夕方、私は2階のリビングで洗濯物を畳んでいた。
つけっぱなしのテレビから、被災地へ支援物資とともに芸能人が訪れる様子が流れていた。
ふと、石油ストーブをつけたような匂いが私の鼻をかすめた。
不審に思い、周りを見回した。
大きな蛇が地面を這うように、白い煙が階段から壁の下をつたって私の前を進んで行った。
「え?」
思うが早いか、私は飛び上がって階段を駆け下りた。
真っ白で何も見えない。
玄関ドアの隙間から、僅かに入ってくる光を頼りに、四つん這いで走って外に出た。
たまたま、家の前で遊んでいた近所の子どもと目が合って、
「家の人に消防車呼んでもらって!」
と、咳き込みながら叫んだ。
そのまま家の裏へ回り、「火事です!」と大声で叫びながら、玄関のドアをたたいて回った。
遠くから、けたたましいサイレンの音が近づいてきた。
大きな消防車が何台も止まり、中から銀色の消防士が何か叫びながら、飛び出してきた。
若い消防士が、「発見者の方いますか!」と叫んでいる。私は手を上げた。
状況を聞かれ、あったことを話した。
彼は「ここから離れないでください」と言い残し、去っていった。
背中から、近所の人らしい声が聞こえてきた。
私を指さし、話す気配がする。
振り返ると大勢の人だかりができていた。
消防士が、大きな長靴を持ってきた。
「これを履いてください!」
足元を見ると、私は靴を履いていなかった。靴下が破れ、血がにじんでいた。
春一番が吹き、嵐のような風が炎をあおり、消火活動を妨げた。
突然、私は誰かに肩を抱かれた。
「気をしっかりな。これからが大変なんやで」
近所に住んでいるおばちゃんだったが、初めて話した。
私は、おばちゃんに携帯電話を借りてサッカーのコーチに連絡した。
私が名乗ると、「お母さん、大丈夫ですか」
コーチは火事のことを知っていた。
私が迎えに行くまで息子をお願いします、と伝えた。
次に夫に電話した。
「家、燃えてるねん」
「え、ちーちゃん大丈夫?」
「うん、子どもらも大丈夫」
「すぐ帰る!」
2時間くらい経っただろうか。
我が家を含む6軒を焼いた炎は、ようやくおさまってきた。
家の持ち主たちが、次々に仕事から帰ってきた。
燃えた家を見て、言葉の出ない人や泣き叫ぶ人もいる。
みんな火元は私だと思っているようだった。
私は訳がわからなかったが、火の出た時に家にいたのは私だけだったので、強く否定ができなかった。
ある人は、「どうしてくれるねん」と私に詰め寄り、ある人は、「逃げるなよ!」と怒鳴り、「うちには怖い親戚がおんねん」とすごんでくる人もいた。
今まで、子育てをしながら近所づきあいをしてきた人たちが、殺人者を見るような目で私を睨んでいる。
「ちーちゃん?」
夫の声がした。
彼は、状況がつかめぬまま近所の人に頭を下げた。
「すみませんでした。でも、火元はまだわかっていません」
「何言うとんねん。お前とこに決まっとるわ」
隣の奥さんが、泣きながら私につかみかかってきた。
私はよろけて倒れそうになった。
夫が叫んだ。
「お前ら、うちやなかったらどないするねん!」
気づいたら長男が私の腕を支えてくれていた。
家の周りに黄色いテープが張られた。
消防隊長がそっと私の所にやってきて、
「お宅が火元ではないですよ」
と教えてくれた。
日の暮れたグラウンドで、2人の息子がコーチとボールを蹴っていた。
大きな長靴を履いて、のそのそ歩いてくる私に気がついて、「ロボットみたい」と可笑しそうに笑った。
すぐに夫の姉が、車で迎えに来てくれた。
その夜、息子たちはいとこと一緒に眠り、私と夫も子ども部屋を貸してもらった。
シングルベッドで二人並んで横になった。
窓のない部屋は、電気を消すと真っ暗になった。
「火事って火を出したとこが弁償せんでいいんやて」
「だから、うちが火元やないってみんなに言わんでええわ」
「火元の家がどんな目にあうか、見たやろ」
私は自分に言い聞かせるように独り言を言った。
耳元で夫の寝息が聞こえてきたが、私は全然寝つけなかった。
火元でないとわかっても、良かった、という気にはなれない。周りの人は、私を火事の犯人だと思っている。
家が燃えてしまったことより、一瞬で変わってしまう人の態度に傷ついた。
「これからどうやって生きていったらいいんやろ」
心の中で言ったつもりが、声になっていた。
「ちーちゃんは俺が守る」
隣から夫の声がした。
瞬きを忘れた私の目から、津波のように涙があふれ出た。
目を閉じると、どばーっと布団にこぼれ落ちた。


