週末、津波被害者の番組を観た。
科学的な実証シミュレーションをした静かなドキュメンタリーだった。
自分は津波にのまれた事は無いけれど、小学生の時に岩場で溺れた事があって、不思議としか言えない気持ちで水面を見上げていた記憶がある。それを思い起こさせるような番組だった。
3.11の日にはその何倍も怖い思いをして、そして苦しんで、亡くなった人が数百人、数千人いたと言う事実。
それを追体験させられるような内容。
ここは本気で想像して、この被災者の体験を(あるいは最後の瞬間までを)自分の身に置きかえて感じて欲しい。
そして今。『その体験を持ったまま生きている人』がいる。
そして『体験を持たない故の残酷で無意識な人たち』と現実を分け合って暮らしている人がいる。
被災者は、一生何も終わらない記憶を持って、その埋められない時間を繰 何度も繰り返し思い返し、身を削られるような気持ちをなんとか騙しながら暮らしている人であり、しかしその体験や気持ちを伝える術がない。
今も底のない水面下の渦中に自分の身体を巻き取られている感覚なのでは無いか?とやるせない。
そんな人たちがいる事を忘れないで欲しい。と、まとめた番組だった。
身の周りをふと考える。
今の日常には『現実の見え方が違う人たち』が作る無意識の刃でいっぱい。津波被災の記憶の差異から来る共有不可能な意識以上に認識の浅い、責任感の甘い感覚などがつきまとい、まとわりつく。何のために、誰のためにあるのかわからない、惰性で出来た生き方の延長部分に営利活動や交流欲求行動があるのだ。
そんな状況にいる本人だって本当は居心地いい筈はないのに、目の前の他人には強要しムダな価値を押し付けようとする。こちらが真意を伝えたところで薄っすらとした反感を買うだけ。いつもの軽い落胆。それで終わる日常。
力を合わせて物事を目標に近づける活動の価値を共有出来ない社会が目の前にある。
自分は多分この無意識社会の無慈悲な感情だけで出来ている津波の渦に確実にのみこまれている。しかし、巻き取られ続けるような被災者(あるいは帰らぬ人)にはなりたくはない。
しかし、それを考えられる自分に与えられたこの時間は、ほんとに『贅沢なご褒美』だとも思う。
意図的に終わらせたり始める事が出来る環境や現象がみつかるこの現実は、まるで裕福な家庭の子どものオモチャ箱以上に恵まれた『想像力の表現の場』だと思う。自分を信じて表現して生きていれば変化可能な自由でいっぱいな環境につつまれた素晴らしい現実もここなのだと思っている。
不安と共に生きることに価値を感じ続ける事が自分の役割ならば、1日1日をしっかり噛み砕きながら栄養にして進む事を忘れないで進みたい。
頑張ると楽しむは紙一重。
そんなフレーズが浮かんだ。
とりあえず最低これだけでOK
キャラクター配置の基本型
ヒーロー物なら1人
恋愛物なら2人
ボケノリツッコミなら3人
日常系なら4人
チームアクションなら5人
集団喜劇なら6人
社会ドラマなら7人