京都カウンセリングルーム nagano yasuakiのブログ

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人生の総括として書き綴ります。どうぞよろしく。
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○生とは逸脱の連続性の上にこそ成り立つものではないか?


人間とは逸脱する存在である。何から? たぶん、正常という論理から。あるいは正常という生活形態から。この世に生を受け、成長し、学習し、恋愛し、結婚し、子どもを産み育て、世の中に送り出し、そして老後と呼ばれる不可思議な世界に足を踏み入れ、己れの死を受容する、といった素描を正常な生活形態と仮に位置づけるなら、人間の生とは絶対に素描のままには終わらない存在である。つまりは生とは、逸脱の歴史と言っても過言ではない。それが人生さ、という居直りが、僕には白々しい言い訳などより、どちらかと言うと、よほどすがすがしい。何故なら逸脱こそが人生の真理の別の表現だからである。道徳や倫理観とは、生きる知恵のようなもので、逸脱し続けようとする生のあり方をいっとき正常な? 生の素描に近づけてくれる特効薬のようなものだ。脱線しながらも、何とか生の終焉を迎えることの出来る人たちは幸福である。自殺を試みた人間としての僕が言うのもおかしなことなのだが、やはり生を唐突に打ち切るような自死というのは、いかにも勿体ない、といまは思う。自死を選ぶ人たちは、原因は数え上げたらキリがないが、どのように言葉を繕ってみても、やはり根底には深い絶望感が横たわっているはずである。だからといって、僕は自死を選び取った人々が己れの絶望感に敗北したのだ、などと断罪するつもりは毛頭ない。むしろ、自殺を敗北だ、と言ってのけられる野放図な神経こそを軽蔑する。僕が自死が勿体ない、と言ったのは、絶望も生の、時折訪れる逃れがたい存在なのだから、それが深くともそれほどのものでなくても、やはり生きて、絶望の中に身を浸す価値がある、とは言いたい。苦しくて自らの身を掻きむしり、血を流しつつその場に身を伏せている、長い、長い、時間の経緯だ。投げ出した方がどれほど辻褄が合っているか、と思うだろう。


逸脱とは生の辻褄が合わぬ論理的思考といえば矛盾した言い方だが、たぶん敢えて定義すると、僕の裡では、こうなってしまう。その意味で自死は辻褄が合いすぎていて、潔癖過ぎる行為であり、思想である。途中から俄然おもしろくなってくるドラマを、投げ出して劇場を後にするようなものである。入場料が勿体ない。人生という劇場への入場料をドブに捨てるようなものである。


逸脱こそが人生だ。逸脱することに伴うあらゆる行為を僕は認める。ただし、他者に迷惑をかけぬことと、その究極の行為としての他殺は認めない。それ以外のことは生きていくからには大抵は認められる行為だ、と思う。苦悩も引き受けてこそのエピュキュリアンとしての生きざまだ。そう思う。


○推薦図書「滴り落ちる時計たちの波紋」 平野啓一郎著。文春文庫。文学こそが生の逸脱を表現する最も有利な方法でしょう。人間の暗黒の心の底の底まで描くことの出来る文学とはいいものです。その意味でこの平野の作品集をお勧めします。文学の底知れぬ可能性、生の底知れぬ可能性を表現している読みごたえのある作品です。お勧めです。いかがでしょう?


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文学ノートぼくはかつてここにいた
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